マフムード・ガズナウィー
概要
北インドへ17回遠征し、寺院の富を持ち帰ってガズナを学芸の都にした。インドでは略奪者として、ペルシア語圏では庇護者として記憶されている。
関わったできごと(1)
ソムナート寺院の略奪AD1026年 · 遠征本文
971年、いまのアフガニスタン東部の町ガズナに生まれた。父セビュクテギンはトルコ系の奴隷軍人(マムルーク)で、中央アジアのイラン系王朝サーマーン朝(サーマーン朝の興り)に仕えて出世し、ガズナの総督として事実上自立した。草原から買われてきた奴隷の兵士が、主人の王朝を支えるうちにその主人を超えていく。マフムードは、そういう家に生まれた二代目だった。

父が997年に亡くなると、後継に指名された弟を戦いで退け、998年に位に就いた。翌年、主家のサーマーン朝が北からの別のトルコ系勢力に滅ぼされると、マフムードはホラーサーン地方を押さえて独立した。バグダードのアッバース朝カリフは、彼に「国家の右腕」という称号を贈って支配を認めた。マフムードはスンナ派のカリフの忠実な守り手を自任し、信仰の戦士としての名声を求めた。「スルタン」と呼ばれた最初期の君主の一人ともいわれる。
そして、南東のインドへ目を向けた。伝統的な数え方では、1000年頃から1027年頃までに17回、北インドへ遠征している。1001年には、ペシャーワル近くでヒンドゥー・シャーヒー朝の王ジャヤパーラの軍を破った。王は敗北の屈辱から、自ら火に身を投じたと伝えられる。その後もパンジャーブを越え、ナガルコート、タネーサル、マトゥラー、カナウジと、豊かな都市と寺院を次々に襲った。

狙いは、征服よりも富だった。インドの大寺院には、何百年にもわたる寄進で、金銀や宝石が蓄えられていた。マフムードはそれを奪い、捕虜とともにガズナへ運んだ。インドで恒常的に支配したのはパンジャーブ地方だけで、ほかの土地は襲っては引き揚げた。
なかでも名高いのが、1026年1月、インド西岸のグジャラートにあったソムナート寺院の略奪である(ソムナート寺院の略奪)。シヴァ神を祀る名高い寺院で、マフムードは砂漠を越える長い遠征の末にここを落とし、多くの人を殺し、神像を打ち砕いて莫大な財宝を持ち帰った。砕いた像のかけらをガズナのモスクの入り口の石段に埋め、人々に踏ませたという話も伝わる。ペルシア語の詩人や年代記作者は、これを偶像を砕いた信仰の勝利として誇らしげに書いた。

遠征はインドだけではない。西では、北の強国カラハン朝と争い、カスピ海南岸のホラズムを併合し、晩年にはイラン中部のレイをブワイフ朝から奪った。最盛期の領土は、イラン東部から中央アジアの南部、北インドの西部にまで及んだ。
インドから運ばれた富は、都ガズナを飾った。壮麗なモスクと学院が建ち、宮廷には詩人や学者が集められた。宮廷詩人たちはスルタンの戦いを讃える詩を競って作った。イランの英雄たちの物語を5万から6万の対句に詠んだフィルドウスィーの『王書』(『シャー・ナーメ(王書)』)も、この宮廷に献じられている。マフムードが約束の金貨ではなく銀貨しか払わなかったので、詩人は怒ってスルタンを罵る詩を書き、後に悔いたスルタンが金貨を送ったときには、詩人の棺が町から運び出されるところだった、という話があるが、これは後世の作り話とされる。

学者のアル=ビールーニーは、ホラズムを併合した際に、ほとんど連行されるような形でガズナへ移された。彼はインドへの遠征に同行し、現地の学者からサンスクリットを学んで、インドの宗教、哲学、天文学、暦、風習を詳しく記した『インド誌』を書いた。その中でビールーニーは、マフムードがインドの繁栄を根こそぎ破壊し、人々をちりぢりにした、とはっきり書いている。略奪する側の宮廷から、インドを最も丁寧に、敬意をもって記述した書物が生まれたことになる。
晩年は病に苦しみ、1030年、ガズナで亡くなった。59歳ほどだった。息子のマスウードが後を継いだが、10年後、ホラーサーンでセルジューク朝の軍に大敗し(ダンダーナカーンの戦い)、西の領土を失った。ガズナ朝はその後、インド側に重心を移して生き延びたが、12世紀には都ガズナも別の勢力に焼かれた。

マフムードをどう記憶するかは、地域によって正反対になる。ペルシア語圏とパキスタンでは、信仰の戦士であり、文芸の庇護者だった名君として語られることが多い。インドでは、寺院を壊し富を奪った略奪者として、ソムナートの名とともに千年近く語り継がれてきた。独立後のインドでは、ソムナート寺院の再建が国の威信をかけた事業になり、1951年に新しい寺院が完成した。歴史家たちは、ソムナートの記憶が時代ごとにどう作り直されてきたかを研究している。マフムードの名は、いまも南アジアの政治の中で繰り返し持ち出されている。