できごと

ベルリン会議とアフリカ分割

Berlin Conference
1884年11月 – 1885年2月
期間を持つできごと重要度 5
ベルリン会議とアフリカ分割に関わる図版:Kongokonferenz
Kongokonferenz Wikimedia Commons Adalbert von Roessler · Public domain

概要

アフリカの代表を一人も呼ばずに、14か国が大陸の分け方を決めた。実効支配していれば領有を認めるという規則が、その後20年の争奪を加速させる。

場所

ベルリン
52.52°N 13.40°E · ドイツ

関わった人(1)

レオポルド2世AD1835年4月9日–AD1909年12月17日 · コンゴを得た

本文

1880年代の初め、アフリカの大陸のうちヨーロッパが実際に支配していたのは、まだ海岸の一部にすぎなかった。北のアルジェリアのフランス、南のケープのイギリス、各地の海岸の交易拠点。内陸の多くは、アフリカの王国や首長国、交易都市が治めていた。

それが数年で変わり始める。ベルギー王レオポルド2世は探検家スタンリーを使ってコンゴ川の流域に拠点を築き、フランスの探検家ブラザはコンゴ川の北岸で首長たちと条約を結んだ。1884年には、それまで植民地に慎重だったドイツも、トーゴ、カメルーン、南西アフリカを相次いで保護領にした。イギリスとポルトガルがコンゴ川の河口をポルトガルのものと認める条約を結ぶと、他の国々が反発した。争いが戦争になる前に、ルールを決めておく必要があった。

ビスマルクによるアフリカ分割を描いた風刺画(1885年、『イリュストラシオン』誌)
ビスマルクによるアフリカ分割を描いた風刺画(1885年、『イリュストラシオン』誌)Wikimedia Commons anonymous · CC0

ドイツの宰相ビスマルク自身は、植民地の獲得には長く冷淡だった。私のアフリカの地図はヨーロッパにある、と語ったとも伝えられる。彼にとってアフリカは、フランスとイギリスの関係を操り、ヨーロッパでのドイツの立場を固めるための駒だった。会議を開いて仲裁役を務めることは、その目的にかなっていた。

1884年11月15日、ビスマルクがベルリンの自分の官邸に各国の代表を招いた。参加したのは、ドイツ、イギリス、フランス、ポルトガル、ベルギー、オランダ、スペイン、イタリア、オーストリア=ハンガリー、ロシア、デンマーク、スウェーデン=ノルウェー、オスマン帝国、アメリカの14か国。アフリカの代表は一人もいなかった。会議の大広間には、大陸の大きな地図が掛けられていたと伝えられる。

レオポルド2世がコンゴを分け合う風刺画
レオポルド2世がコンゴを分け合う風刺画Wikimedia Commons François Maréchal · Public domain

議題は、コンゴ川流域の扱いから始まった。翌1885年2月26日に署名された議定書は、コンゴ盆地の広い範囲での自由な貿易と、コンゴ川とニジェール川を船が自由に行き来できることを定めた。奴隷貿易の禁止と、現地の人びとの暮らしの改善もうたわれた。しかし、大陸のどこをどの国が取るかを、会議が地図の上で分けたわけではない。決まったのは、分け方の規則だった。

アフリカの海岸に新しく領土を得た国は、それを他の国に通知する。そして、主張するには実際に支配していなければならない。いわゆる実効支配の原則である。議定書の文言では海岸部についての取り決めだったが、各国はこれを内陸にも当てはめていった。海岸を押さえた国はその奥の土地への優先権を主張し、名目だけの主張では足りないので、競って探検隊と兵を送り、首長たちと条約を結び、旗を立てた。会議と前後して、レオポルド2世はコンゴ盆地の広大な土地を自分の「自由国」として各国に認めさせている。

「アフリカ分割」と呼ばれる争奪は、ここから一気に進んだ。1870年ごろには大陸の1割ほどだったヨーロッパの支配は、1914年には9割を超えた。第一次世界大戦の前に独立を保っていたのは、エチオピアとリベリアだけになる。エチオピアは1896年のアドワの戦いでイタリア軍を破り、独立を守り抜いた。それ以外の地域では、多くの王国や首長国が戦いに敗れ、あるいは条約で主権を奪われた。南ではイギリスが、イサンドルワナの戦いで大敗を喫しながらもズールーの王国を倒し、のちにボーア戦争でボーア人の国々も併合した。

アドワの戦いに関わる図版:Adoua 1
アドワの戦いWikimedia Commons The Graphic , from details supplied by survivors · Public domain

国境は、ヨーロッパの都市の会議室で、川と山と、ときには緯線と経線で引かれた。現地の民族の分布、言葉、王国の境、牧畜民の季節の移動路は、ほとんど考慮されなかった。一つの民族が二つ三つの植民地に分けられ、長く対立してきた集団が一つの植民地に入れられた。いまのアフリカの国境にも、定規で引いたような直線が多く残っている。

独立の時代が来たとき、アフリカの新しい国々は、この国境を引き直さないことを選んだ。1963年に作られたアフリカ統一機構の設立は、翌年、植民地時代の国境を尊重する決議を採択している。引き直せば際限のない争いになる、という判断だった。それでも、国境をまたぐ民族と、国境の中に押し込められた民族の問題は、独立後の内戦や分離運動の背景の一つになった。

ベルリン会議以前、1865年のアフリカの地図
ベルリン会議以前、1865年のアフリカの地図Wikimedia Commons Samuel A. Mitchell, American Cartographer · Public domain

会議が規則を決めた20年後、そのうちの一つの帰結を世界が知ることになる。コンゴ自由国で、自由な貿易と人びとの保護を約束したはずの土地が、ゴムの割当と手の切断の地になっていた。議定書が掲げた人道の言葉は、守らせる仕組みを何も持っていなかった。

歴史家のあいだでは、ベルリン会議の意味をめぐって評価が分かれる。会議が分割を始めたのではなく、すでに始まっていた争奪を、ヨーロッパどうしの戦争にならないように整理しただけだ、という見方がある。一方で、アフリカの人びとの不在のまま、大陸を分け合う規則を当然のように決めたことそのものが、この時代の植民地主義を象徴している、という見方も根強い。

動画(1)

145 帝国主義 世界史20話プロジェクト第15話Historia Mundi ムンディ先生高校の世界史を200講で通す講義の第145講「帝国主義」

同じ時代のできごと

第一回ジュネーヴ条約AD1864年8月22日パラグアイ戦争AD1864年信用組合AD1864年天狗党の乱AD1864年(元治元年)禁門の変1864年8月20日(元治元年7月19日)四国艦隊下関砲撃事件1864年9月5日(元治元年8月5日)池田屋事件1864年7月8日(元治元年6月5日)第一インターナショナルAD1864年9月28日
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1884年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →