ハワイ王国の転覆

概要
砂糖農園主らが海兵隊の後ろ盾で女王を退位させた。5年後にアメリカが併合する。
場所
19.90°N -155.58°E · アメリカ合衆国・ハワイ州
関わった人(1)
リリウオカラニAD1838年9月2日–AD1917年11月11日 · 当人本文
ハワイ諸島は、1810年にカメハメハ1世が統一した王国である(ハワイ王国の統一)。19世紀の前半からアメリカの宣教師が渡り、文字や学校、キリスト教を広めた。その子や孫の世代の多くは商人や農園主になり、王国の政府にも入り込んだ。島々の経済を握ったのは、サトウキビの農園である。1875年、王国はアメリカと互恵条約を結び、ハワイの砂糖は関税なしでアメリカに売れるようになった。農園は急速に広がり、中国、日本、ポルトガルなどから大勢の労働者が連れてこられた。
その間、ハワイの先住の人々は、外から持ち込まれた病によって激減していた。ヨーロッパ人が来た18世紀の末には数十万人いたとされる人口は、19世紀の末には4万人ほどにまで減っていた。王国の国民の中で、先住のハワイ人は少数派になりつつあった。

1887年、農園主や商人を中心とする白人の秘密結社が武装して王カラーカウアに迫り、新しい憲法を認めさせた。王の権限は大きく削られ、選挙権には財産の条件が付けられて、多くのハワイ人やアジア系の住民は投票できなくなった。銃剣で押しつけたことから、後に「銃剣憲法」と呼ばれる。同じ年、アメリカは真珠湾を海軍の基地として使う権利を得た。
1891年、カラーカウアが亡くなり、妹のリリウオカラニが女王になった。女王は、王の権限とハワイ人の選挙権を取り戻す新しい憲法を出そうとした。1893年1月、その動きを知った白人の有力者たちは「治安委員会」を作り、王政を倒す準備を始めた。

アメリカの公使ジョン・スティーヴンスは、この動きをはっきりと支持していた。1月16日、彼は「アメリカ人の生命と財産を守る」という名目で、港に停泊していた軍艦ボストンから160人あまりの水兵と海兵隊を上陸させた。部隊は宮殿や政府の建物の近くに配置された。翌17日、治安委員会は臨時政府の樹立を宣言し、のちに大統領となるサンフォード・ドールを首班に据えた。スティーヴンスはその日のうちに臨時政府を承認した。
女王には、王国の兵と、彼女を支持する多くの国民がいた。しかし、アメリカ軍と戦えば多くの血が流れる。女王は声明を出し、アメリカ合衆国の優勢な力に対して、流血を避けるために、合衆国政府が事実を知って自分を元の地位に戻すまで、権限を一時的に譲る、と述べた。退位したのではなく、アメリカに預けた、という形である。

臨時政府はすぐにアメリカとの併合条約を結んだが、3月に大統領に就いたクリーヴランドは、これを議会から引き上げ、調査官を送った。その報告をもとに、クリーヴランドは12月、議会への教書で、アメリカの外交官と軍が友好国の政府を倒すのに手を貸した不法な行為だと認め、女王の復位を求めた。しかし臨時政府は拒み、1894年7月、ハワイ共和国を宣言した。
1895年1月、王政の復活を目指す人々が武装して立ち上がったが、すぐに鎮圧された。女王は宮殿の一室に閉じ込められ、支持者たちの命と引き換えに退位の文書に署名させられた。約8か月の幽閉の間、女王は多くの歌を書いた。のちにハワイ王国の最後の女王として、回想録『ハワイの物語』を書き、1917年に亡くなった。

1897年、併合の動きが再び強まると、ハワイ人たちは各地で併合反対の署名を集め、数万人分をアメリカの議会に届けた。併合条約は上院で3分の2の賛成を得られなかった。ところが翌1898年、米西戦争が始まり、フィリピンへ向かう艦隊の中継地としてハワイの価値が高まると、議会は条約ではなく両院の決議という形で併合を決めた。ハワイは1900年にアメリカの準州となり、1959年に50番目の州になった。
1993年、転覆から100年目の年に、アメリカの議会は、王国の転覆にアメリカが関わったことを認めてハワイの先住民に謝罪する決議を採択し、クリントン大統領が署名した。王国の転覆の後、学校でのハワイ語の使用は禁じられ、言葉は一時、消えかけた(ハワイ語の禁止と復活)。主権の回復を求める運動は、今も続いている。