できごと

クレヴォの合同

Union of Krewo
AD1385年8月14日
重要度 4
クレヴォの合同に関わる図版:Union of Krewo
Union of Krewo Wikimedia Commons en:Jogaila · Public domain

概要

リトアニア大公が、洗礼を受けてポーランドの11歳の女王と結婚する約束をした。ヨーロッパ最後の異教の国が改宗し、二つの国が一人の君主の下に並ぶ。

場所

クレヴォ
54.31°N 26.29°E · ベラルーシ

関わった人(2)

ヨガイラ(ヴワディスワフ2世)AD1352年頃–AD1434年6月1日 · 大公。ポーランド王になるヤドヴィガAD1373年–AD1399年7月17日 · 女王

本文

14世紀後半、バルト海の南東には、ヨーロッパで最後まで異教を守り続ける国があった。リトアニア大公国である(リトアニア大公国)。森と沼の多い土地に雷神ペルクーナスなどの神々を祀る人びとが暮らし、大公たちは東のルーシの諸公国を次々に従えて、黒海の近くまで広がる大国を築いていた。領民の多くは、征服されたルーシの正教徒だった。

この国の西の脇腹を脅かしていたのが、ドイツ騎士団である。異教徒への十字軍を掲げてバルト海沿岸に国を作った騎士団は、毎年のようにリトアニアへ攻め込み、ヨーロッパ各地の騎士がこの「異教徒狩り」に参加していた。異教のままである限り、リトアニアは十字軍の口実を与え続けることになる。

1385年8月14日にクレヴァ(Kreva)で調印された文書
1385年8月14日にクレヴァ(Kreva)で調印された文書Wikimedia Commons Поляки і Литовці · Public domain

一方のポーランドも、王位の行方に悩んでいた。1370年に王家の血が絶えると、甥にあたるハンガリー王ラヨシュ(ポーランドではルドヴィク)が王位を継いだが、1382年に男子を残さずに亡くなる。ポーランドの貴族たちは、ハンガリーと一体にされることを嫌い、末娘のヤドヴィガを迎えることにした。1384年10月、10歳のヤドヴィガはクラクフで戴冠した。女王ではなく「王」としての戴冠である。

問題は、誰を夫に迎えるかだった。ヤドヴィガは幼いころから、オーストリアのハプスブルク家の公子ヴィルヘルムと婚約していた。しかしポーランドの有力者たちが選んだのは、リトアニア大公ヨガイラ(ヴワディスワフ2世)だった。ヨガイラにとっては、ポーランドの王冠と、騎士団に対抗する同盟が手に入る。ポーランドにとっては、東の大国を味方にし、騎士団に奪われた土地を取り戻す望みが開ける。

クラクフにあるヤドヴィガとヨガイラの像
クラクフにあるヤドヴィガとヨガイラの像Wikimedia Commons Rj1979 · Public domain

1385年8月14日、リトアニアのクレヴォの城で、ヨガイラはポーランドの使節に約束の文書を渡した。自分と、まだ洗礼を受けていない兄弟や親族、貴族と民がカトリックの洗礼を受けること。ポーランドが失った土地を取り戻すこと。捕らえていたポーランド人を解放すること。ヴィルヘルムには婚約破棄の償いとして金を払うこと。そして、リトアニアとルーシの土地をポーランドの王冠に「結びつける」こと。最後の一文をどう読むかは、のちに大きな争いの種になった。ポーランド側はリトアニアを王国に組み込む約束と読み、リトアニア側は君主が同じになるだけだと読んだのである。

ヤドヴィガ自身がこの結婚をどう受け止めたのかは、確かな記録が無い。婚約者のヴィルヘルムがクラクフまで来たが城から追い出され、ヤドヴィガが斧で門を破って会いに行こうとした、という話は後世の年代記に見えるが、伝説の色が濃い。翌1386年2月、ヨガイラはクラクフで洗礼を受けてヴワディスワフと名乗り、3日後にヤドヴィガと結婚し、3月に国王として戴冠した。夫は妻より10歳以上、一説に20歳ほど年上だった。

ヤドヴィガの肖像、バッチャレッリ画
ヤドヴィガWikimedia Commons Marcello Bacciarelli · Public domain

翌年、ヨガイラはリトアニアへ戻り、首都ヴィリニュスで人びとにまとめて洗礼を施し、司教座を置いた。ただし西のジェマイティア地方の改宗は1413年ごろまで遅れ、古い信仰は民の間に長く残った。正教徒のルーシの領民にとっては、カトリックの君主を戴く新しい時代の始まりでもあった。

合同は、すぐに順調に進んだわけではない。ヨガイラの従兄弟ヴィータウタスはリトアニアの自立を求めて争い、やがて大公としてリトアニアを事実上独立して治めることを認められた。それでも二つの国は手を組み、1410年にはグルンヴァルトの戦いでドイツ騎士団の主力を打ち破る。騎士団が掲げてきた十字軍の大義は、リトアニアの改宗で失われていた。

グルンヴァルトの戦いに関わる図版:Jan Matejko, Bitwa pod Grunwaldem
グルンヴァルトの戦いWikimedia Commons Jan Matejko · Public domain

ヤドヴィガは1399年、生まれたばかりの娘を亡くした直後に、25歳ほどで亡くなった。遺言で宝石を売らせ、クラクフの大学の再建にあてた。いまのヤギェウォ大学である。彼女はポーランドで国のために身を捧げた王として慕われ、1997年に聖人とされた。ヨガイラの子孫のヤギェウォ朝は16世紀後半までポーランドとリトアニアを治め、1569年には二つの国が一つの共和国となる(ポーランド・リトアニア共和国)。クレヴォの約束は、東ヨーロッパに200年以上続く大国が生まれる最初の一歩だった。

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