ポルタヴァの戦い

概要
スウェーデンの遠征軍がロシアに壊滅した。王はオスマンへ逃げて5年帰らない。バルト海の主が、この一戦で入れ替わる。
場所
49.59°N 34.55°E · ウクライナ
関わった人(2)
カール12世AD1682年6月17日–AD1718年11月30日 · 総指揮。敗走ピョートル1世AD1672年6月9日–AD1725年2月8日 · 総指揮本文
17世紀のスウェーデンは、バルト海を囲む大国だった。フィンランド、エストニア、リヴォニア、ドイツ北部の港を押さえ、バルト海は「スウェーデンの湖」とまで呼ばれた。1700年、デンマーク、ザクセン=ポーランド、ロシアの三国が、スウェーデンの若い王が即位したばかりの隙を突いて同盟し、攻めかかった。大北方戦争の始まりである。
ところが18歳のカール12世は、並外れた戦の才を見せた。まずデンマークを降し、同じ年の冬、ナルヴァでロシア軍を数分の一の兵で打ち破った。続く数年をポーランドでの戦いに費やし、ザクセン選帝侯からポーランド王位を奪った。そのあいだにロシアのピョートル1世は、敗戦に学んで軍を立て直し、大砲を鋳造し、バルト海の奥のネヴァ川河口を奪って新しい都の建設を始めていた(サンクトペテルブルクの建設)。
1708年、カール12世はいよいよロシアへ向かった。モスクワを目指したが、ロシア軍は焦土戦術で退き、補給が続かない。王は南のウクライナへ向きを変えた。ロシアの支配から離れようとしていたコサックの頭領マゼーパが味方につくはずだったが、マゼーパの本拠はロシア軍に先に焼き払われ、従ってきたコサックは数千人にとどまった。スウェーデンへ物資を運んでいた援軍も途中で襲われ、届かなかった。
そこへ、1708年から翌年にかけての冬が来た。ヨーロッパ全体を記録的な寒さが襲い、凍死や凍傷で多くの兵が倒れた。春に残ったスウェーデン軍は2万数千、うち戦える兵はさらに少なかった。王はウクライナの町ポルタヴァを囲んだが、落とせないまま、ピョートル率いるロシアの主力が近くに陣を築いた。戦いの10日ほど前、王は偵察中に足を撃たれ、自分で馬に乗れなくなっていた。

1709年7月8日(グレゴリオ暦)の夜明け前、スウェーデン軍は攻撃に出た。担架の上の王に代わって、レーンスケルド元帥が指揮をとった。ロシア軍の陣の前には、野戦用の堡塁が列をなして並んでいた。スウェーデン軍はその間を一気に駆け抜けて本陣に迫る計画だったが、命令がよく伝わらず、一部の隊が堡塁を攻めることにこだわって主力からはぐれ、包囲されて降伏した。
主力が態勢を立て直したとき、ロシア軍はすでに陣から出て、平原に整然と並んでいた。最後の正面攻撃に加わったスウェーデン歩兵は数千、迎え撃つロシア歩兵はその数倍だった。大砲は、運ぶ火薬も乏しいスウェーデン側がわずか数門しか使えなかったのに対し、ロシアは100門近くを並べていた。スウェーデン歩兵は砲火の中を突き進んだが、側面から包まれ、2時間ほどで崩れた。スウェーデン側の死傷者は7000ほど、ほかに捕虜が3000近く出たのに対し、ロシア側の戦死者は1300あまりだったとされる。

王は少数の供回りとともに南へ逃れ、ドニエプル川を渡ってオスマン帝国の領内へ入った。取り残された1万数千の兵は、3日後、ドニエプル河畔のペレヴォローチナで降伏した。捕虜の多くはシベリアなどへ送られ、故郷へ帰れた者は少ない。ピョートルは戦勝の宴で、捕らえたスウェーデンの将軍たちを招き、戦の師であった諸君に乾杯すると言ったと伝えられる。
カール12世はオスマン帝国に5年あまり留まり、スルタンにロシアとの戦争を促した。オスマンは1711年にロシアと戦って勝ったものの、王の望んだ大勝負にはならなかった。王が帰国した後も戦争は続いたが、1718年、王はノルウェーの要塞を囲む陣中で頭を撃ち抜かれて死んだ。

1721年のニスタット条約で、スウェーデンはバルト海東岸の領土の多くをロシアに譲った。ピョートルは皇帝(インペラートル)を名乗り、ロシアは名実ともにヨーロッパの大国の列に加わる。ポルタヴァの一戦は、北ヨーロッパの主役が入れ替わった日として、いまもロシアとスウェーデンの双方で記憶されている。