曹丕の即位(漢の滅亡)
概要
献帝が三度譲位の詔を出し、曹丕が三度辞退して、四度目に受けた。受禅台。400年の漢が、儀式で終わった。献帝は山陽公として14年生き、曹丕より長生きした。「舜禹の事、私は知った」と曹丕は言ったと伝える。禅譲の型は、晋、宋、斉、梁、陳、隋、唐が真似た。
場所
34.62°N 112.45°E · 中国・河南省
関わった人(1)
曹丕AD187年–AD226年 · 皇帝本文
後漢の最後の皇帝、献帝劉協は、181年に生まれ、9歳で董卓に擁立された。董卓は洛陽を焼いて幼い皇帝を長安へ連れ去り、董卓が殺されたあとも、皇帝は将軍たちの争いの中を転々とした。196年、洛陽の廃墟に戻った献帝を迎え入れたのが曹操だった。曹操は皇帝を許の都に置き、その名で天下に号令した。皇帝はいたが、政治を動かしていたのは曹操だった。
曹操は丞相となり、213年に魏公、216年に魏王に進んだが、自らは皇帝にならなかった。周の文王のように、徳を積んで天下の大半を治めながら、王朝を開くのは息子に任せる、という意味の言葉を残したと伝えられる。220年の正月、曹操は洛陽で死んだ。曹操の死のあと、長男の曹丕が魏王と丞相の位を継ぎ、元号を延康と改めた。曹丕は33歳だった。

その年の秋から、魏の臣下たちは次々に、天命が漢から魏へ移ったことを示すしるしを報告した。めでたい鳥や龍が現れた、古い予言書に魏の名が出ている、というものである。冬、献帝は位を魏王に譲るという詔を出した。漢の徳はすでに衰え、天の命は魏にある、という趣旨だった。曹丕はこれを辞退した。群臣が天意に従うべきだと上奏し、献帝が再び詔を出し、曹丕がまた辞退する。こうしたやり取りが繰り返されたのち、曹丕はついに受けた。
儀式は、潁川郡の繁陽に築かれた壇の上で行われた。受禅台と呼ばれる。曹丕は壇に上って皇帝の位につき、天を祭り、元号を黄初と改めた。国号は魏である。前漢の建国から数えて、およそ400年続いた漢の王朝は、戦争ではなく、譲り渡しの儀式で幕を閉じた。

徳のある者に位を譲る禅譲は、儒教が理想とする王朝の交代の形だった。伝説の聖王の堯は、自分の子ではなく舜に位を譲り、舜は治水に功のあった禹に譲ったとされる。漢の時代、これを最初になぞったのは、前漢の皇帝から位を受けて新を建てた王莽である。曹丕はその手続きを、詔と辞退と上奏の繰り返しという形で整えた。即位のあと、曹丕が、舜と禹のことが、いまわかった、と言ったという話が伝わっている。聖王の禅譲も実はこういうものだったのだ、という皮肉とも取れる言葉だが、本当に言ったのかは分からない。
退位した献帝は、山陽公に封じられた。1万戸の領地を与えられ、魏の皇帝に対して臣と称さなくてよく、領地の中では漢の天子の礼と暦を使うことが許された。前の王朝の子孫を賓客として遇する、古い礼にならったものである。劉協は山陽で14年を過ごし、234年に死んだ。曹丕より8年長く生きたことになる。奇しくも、蜀の諸葛亮が五丈原の陣中で死んだのと同じ年だった。山陽公の領地があったのは、いまの河南省焦作のあたりで、献帝の陵が残る。退位した献帝が土地の人々に医術を施して慕われたという話も伝わるが、これは後世の言い伝えである。
献帝が殺されたという噂は、遠い蜀に届いた。益州を治めていた劉備は、献帝のために喪を発し、221年、漢の皇帝の位についた。自分こそが漢を受け継ぐという立場である。実際には献帝は生きていた。江南の孫権は、魏の臣下の形をとったり、自立したりを経て、229年に皇帝を名乗った。こうして、三人の皇帝が並び立つ時代がはっきりと形をとった。
曹丕が整えた禅譲の型は、その後の中国の王朝交代の手本になった。265年の暮れ、魏の重臣の司馬炎は、魏の最後の皇帝曹奐から同じ手続きで位を受けて晋を建てた(司馬炎の晋建国)。南朝では、宋を建てた劉裕、斉の蕭道成、梁の蕭衍、陳の陳霸先がみな禅譲の形をとり、隋の楊堅も、唐の李淵も同じ形で位を受けた。ただし、曹丕と司馬炎が前の皇帝を賓客として生かしたのに対し、南朝以後の多くの王朝は、位を受けたあとほどなく前の皇帝を殺した。禅譲は形だけの儀式となっていった。
曹丕は文学者としても知られる。著書『典論』の中の「論文」の篇で、文章は国を治める大事業であり、朽ちることのない盛んな事業だ、と書いた。文学を独立した価値を持つものとして論じた、中国で最も早い文章の一つとされる。父曹操、弟の曹植とともに「三曹」と呼ばれ、彼の「燕歌行」は、完全な形で残る最も古い七言詩の一つとされる。
一方で、弟の曹植とは後継ぎを争った過去があり、即位後も曹植を冷遇した。七歩歩く間に詩を作らねば死罪にすると命じた「七歩詩」の話は、後世の創作とされるが、兄弟の確執を物語っている。曹丕は即位から7年後の226年、40歳で死んだ。陳寿の陳寿『三国志』は、文帝は生まれつき文才に富み、筆を下ろせば文章ができた、もし度量が広く公平であったなら古の賢君にも及んだだろう、と評している。
受禅の儀式を記念する碑は、いまも河南省臨潁の繁城に残る。曹丕に即位を勧めた臣下たちの上奏文を刻んだ碑と、即位の次第を記した「受禅表」の碑で、その書は当時の名手、鍾繇や梁鵠の手になるとも伝えられる。400年の王朝の終わりは、儀式の文書として石に残された。