できごと

周の東遷

Zhou capital moved east
BC770年
重要度 4
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC770年の版図を描いています(17勢力)。

概要

都を鎬京から洛邑へ移した。王の権威は落ち、諸侯が実力で競う春秋時代に入る。

場所

洛陽
34.62°N 112.45°E · 中国・河南省

本文

紀元前11世紀、周は殷を倒して中国の中心に立った。都は西の渭水の流域、いまの西安の近くにあった鎬京である。周の王は、一族や功臣を各地に封じて諸侯とし、彼らに土地と民を治めさせた。諸侯は王に貢ぎ物を納め、戦のときには兵を出す。王と諸侯を血縁と儀礼で結ぶ、この仕組みを封建と呼ぶ。周はまた、東方を治める拠点として、のちの洛陽にあたる洛邑を築いていた。

この仕組みは、時代が下るにつれて緩んでいった。代を重ねるごとに王と諸侯の血のつながりは遠くなり、諸侯は自分の土地で力を蓄えた。西北の辺境からは、遊牧系の人々がしばしば侵入した。

周王室の系図(西周含む)
周王室の系図(西周含む)Wikimedia Commons No machine-readable author provided. らりた~commonswiki assumed (based on copyright claims). · Public domain

紀元前8世紀の前半、周の幽王の時代に、王朝は大きく揺らいだ。幽王は、后の申后とその子の太子を退け、寵愛する褒姒を后にし、その子を太子に立てた。怒った申后の父・申侯は、西方の犬戎と結んで都に攻め込み、紀元前771年、幽王は殺された。

司馬遷の『史記』には、この幽王にまつわる有名な話がある。褒姒はめったに笑わなかったが、幽王が敵の襲来を知らせる烽火を上げ、諸侯が慌てて駆けつけてくると、それを見て大笑いした。幽王は喜んで何度も烽火を上げたため、諸侯は信じなくなり、本当に敵が来たときには誰も来なかった、という話である。ただし烽火の仕組みはもっと後の時代のものとみられ、この逸話は後世の作り話とする見方が強い。近年見つかった戦国時代の竹簡の記録では、幽王の死の後、王が二人並び立った時期があったともされ、東遷の経緯は『史記』の伝えるほど単純ではなかったようだ。

いずれにしても、鎬京を失った周は、申侯らに擁立された平王のもとで、紀元前770年、東の洛邑に都を移した。これを周の東遷と呼び、それ以前を西周、以後を東周と呼んで分ける。東遷を助けたのは、晋や鄭といった諸侯だった。西方では、平王を護衛した功で秦の君主が諸侯に取り立てられ、周が手放した渭水の流域を治めることになった。この秦が、500年あまり後に中国を統一する(秦の中国統一)。

東へ移った周の王は、王の位こそ保ったが、直轄の領地と兵を大きく失った。周王の命令に従う諸侯は少なくなり、王の権威は目に見えて衰えた。紀元前707年には、鄭の軍と戦った周の桓王が、戦場で矢を肩に受けるという事件まで起きている。家臣に当たる諸侯が、王に弓を引いたのである。

東周の前半を、春秋の争覇と鉄製農具と呼ぶ。魯の国の年代記『春秋』がこの時代を扱っていることにちなむ名である。この時代には、実力のある諸侯が「覇者」として諸侯の会盟を主宰し、秩序を保った。最初の覇者とされるのが斉の桓公で、宰相の管仲の助けを得て国を富ませ、周王を尊ぶ形をとりながら、北や南の異民族の侵入を退けた(斉の桓公の覇)。のちに晋の文公も覇者となった。

注目すべきは、これほど力を失っても、誰も周王を廃そうとしなかったことである。覇者たちは、実力では王をはるかに上回っても、自ら王を名乗ることはなく、周王から認められるという形をとって、諸侯の上に立った。のちの時代、斉の桓公の事業は「尊王攘夷」という言葉でまとめられ、この言葉は遠く幕末の日本で、天皇を尊び外国を打ち払えという主張の旗印にもなった。

権威は周王に、実際の力は諸侯に、という分かれた状態は、数百年にわたって続いた。この時代に、鉄の農具が広まり、商業が発達し、孔子が現れて、失われつつある周の礼を取り戻そうと説いた。

やがて、晋が有力な家臣たちによって三つに割られ、周王がそれを追認する(三家分晋(戦国時代の始まり))。尊王の建前さえ薄れ、諸侯が次々に王を名乗る戦国時代が始まる。周の王室は、その中で小さな国の一つとして命脈を保ち、紀元前256年に秦に滅ぼされた。名目だけの王が数百年も残り続けたことは、形を残したまま中身を移すという、その後の東アジアで繰り返される政治のあり方の、最初の例とも言える。

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