盤庚の遷都
概要
五度目の遷都で殷に落ち着き、以後273年動かなかった。だからこの王朝は殷と呼ばれる。その跡が殷墟で、甲骨文字はここから出た。
場所
36.13°N 114.31°E · 中国・河南省安陽
本文
黄河の中流と下流の平野に、紀元前16世紀ごろ、殷の王朝が興った(殷の成立)。伝承では、湯王が夏の最後の王を倒して国を開いたとされる。殷の王たちは青銅の祭器を鋳造し、祖先と神々に盛大な祭りを捧げ、周りの勢力と戦いながら黄河の平野を治めた。
殷は、都を何度も移したと伝えられる。前漢の司馬遷の『史記』は、殷の都が定まらず、たびたび移ったことを記している。なぜ移ったのかは、洪水を避けた、王族の内紛で王統が移るたびに都も動いた、新しい土地を求めた、など諸説あり、はっきりしない。いまの鄭州で見つかった大きな城壁の都市の跡は、殷の前期の都の一つと考えられている。

盤庚は、殷の王の系譜のちょうど半ばに名の見える王になる。その盤庚が、伝えられるところでは五度目の遷都をして、殷の地に都を移した。いまの河南省の北部、安陽の町のあたりになる。
民は嫌がった。住み慣れた土地を離れたくない者が多く、貴族たちも不満を口にした。古い記録を集めた『書経』には「盤庚」という三つの篇があり、王が民と臣下に向かって移住を説く言葉が残っている。お前たちは私の心を知ろうともせず、根も葉もない言葉で民を惑わせている、移らなければ祖先の霊が罰を下すだろう、と、なだめたり脅したりしながら説得している。この篇がいつ書かれたのかには議論があるが、中国に伝わる最も古い文章の一つとされる。
移った。
それがいつのことだったのかは、正確には分からない。中国の歴史で年を確かめられるのは紀元前841年からで、それより前の王の年代は推定になる。中国の研究者たちが1990年代に進めた年代の研究は、盤庚の遷都を紀元前1300年ごろとしたが、異論もある。
『竹書紀年』という古い年代記には、盤庚が殷に移ってから殷が滅びるまで、273年のあいだ都は動かなかった、とある。だから、この王朝は殷と呼ばれる。王朝の側は自分たちを商と名乗り、都を「大邑商」と呼んでいた。殷という呼び名は、殷を倒した周の側から広まったものと考えられている。
その都の跡が殷墟になる。洹河という川をはさんで、南に宮殿と宗廟の区域、北に王の墓の区域が広がる。1999年には、殷墟の北東、川の向こう側で、殷墟より少し古い大きな城壁の都市の跡が見つかった。盤庚が最初に移った都はこちらではないか、という説もある。殷墟の宮殿の区域が大きく栄えるのは、盤庚の少しあとの武丁の時代からになる。
殷墟が見つかったきっかけは、薬だった。19世紀の終わり、北京の学者が、漢方薬の「竜骨」として売られていた古い骨に、文字が刻まれていることに気づいたと伝えられる。骨は亀の甲羅や牛の肩甲骨で、殷の王が占いに使ったものだった。甲骨文字である(甲骨文字)。出どころを辿ると、安陽の小屯という村の畑から、農民が掘り出していたものだった。

1928年から、中国の研究機関による本格的な発掘が始まった。1937年に日中戦争で中断するまでに15回の発掘が行われ、宮殿の土台、王の墓、殉葬された人々、戦車と馬を埋めた坑、そして膨大な甲骨が出た。一つの穴から1万7千片あまりの甲骨がまとめて見つかったこともある。いままでに見つかった甲骨は15万片ほどにのぼる。1976年には、武丁の妃で、自ら軍を率いた婦好の墓が、盗掘を受けないまま見つかっている。
甲骨には、王が神と祖先に問うた言葉が刻まれていた。雨は降るか、収穫はあるか、戦に勝つか、王妃の出産は無事か、祖先の誰に何人の生け贄を捧げるか。そこに並ぶ殷の王の名は、『史記』に書かれた王の系譜とほぼ一致した。
伝説とされていた王朝が、そこにあった。それまで、殷の歴史は1000年以上後に書かれた書物のなかにしかなく、本当にあったのかを疑う学者もいた。甲骨と殷墟は、中国の歴史を、文字で確かめられる時代として紀元前13世紀ごろまで押し上げた。殷は紀元前11世紀、周に倒される(牧野の戦い(殷周革命))。