淝水の戦い
概要
華北を統一した前秦の大軍が、東晋の8万に敗れた。「風声鶴唳」の語はこの敗走から。華北は再び割れ、南北の分裂が150年延びる。
場所
32.56°N 116.80°E · 中国・安徽省寿県付近
関わった人(2)
苻堅AD338年–AD385年 · 前秦の皇帝謝安AD320年–AD385年 · 東晋の総指揮本文
4世紀の中国は、南北に割れていた。西晋が滅びた後、華北には匈奴や鮮卑、羯、氐、羌といった北方や西方から来た諸民族が次々に国を建て、争った。晋の一族は江南に逃れ、建康(いまの南京)を都として南を保った(東晋の成立)。江南の豪族と、北から逃れてきた貴族たちが支える政権で、北へ攻め返す力は乏しかったが、長江という天然の堀に守られていた。
その華北を、氐族の国、前秦の苻堅がまとめあげた。苻堅は漢人の王猛を宰相に抜擢し、法を整え、農業を立て直し、学校を開いた。鮮卑の前燕を滅ぼし、涼州や代の国を下して、376年までに華北を統一する(前秦の華北統一)。降した国の王族や将軍を殺さず、そのまま重用したのも苻堅のやり方だった。寛大さとして称えられる一方で、征服された諸民族の有力者が、都のすぐそばで力を保ち続けることにもなった。

375年、王猛は死の床で、東晋を攻めてはならない、警戒すべきはむしろ国内の鮮卑と羌だ、と言い残したと伝えられる。苻堅はこの忠告に従わなかった。天下を一つにするのは自分の務めだと考え、群臣や弟の苻融の反対を押し切って、南征を決めた。
383年、前秦は号して百万の大軍を発した。歩兵60万、騎兵27万と史書は記すが、実際に前線で戦った兵ははるかに少なかったと考えられている。これを迎え撃つ東晋の軍は8万ほど。総指揮をとる宰相の謝安は、甥の謝玄や弟の謝石らを前線に送り出した。謝玄が率いたのは、北から逃れてきた人びとを集めて鍛えた「北府兵」と呼ばれる精鋭だった。

両軍は、いまの安徽省、寿春の近くを流れる淝水をはさんで向かい合った。前秦の大軍は長い道のりをばらばらに進んでおり、前線に着いていたのは苻融の率いる先鋒の一部だった。東晋の側は使いを送り、少し陣を下げてくれれば川を渡って一戦を交えたい、と申し入れた。苻堅はこれに乗った。渡河の途中を騎兵で叩けば勝てると考えたのである。
ところが、後退の合図が出ると、前秦の陣は止まらなくなった。かつて東晋の将で、捕らえられて前秦に仕えていた朱序が、陣の後ろで「秦軍は敗れた」と叫んだとされる。寄せ集めの大軍は、何が起きているか分からないまま崩れ出した。苻融は馬が倒れたところを討たれ、東晋軍は川を渡って追い撃った。逃げる兵たちは、風の音や鶴の鳴き声を聞いても東晋の追手が来たと思い込んで、昼夜休まずに逃げたという。「風声鶴唳」の語はここから生まれた。戦いの前、寿春の城壁から東晋の陣を眺めた苻堅が、整った隊列を見て恐れ、さらに八公山の草木まで敵兵に見えた、という話も伝わり、こちらは「草木皆兵」の語の由来になっている。

勝利の知らせが建康に届いたとき、謝安は客と碁を打っていた。手紙を読み終えると黙って脇に置き、碁を続けた。客が尋ねると、子どもたちがどうやら賊を破ったようだ、とだけ答えた。客が帰った後、喜びのあまり下駄の歯が敷居に当たって折れたのにも気づかなかったと、史書は伝えている。
敗戦は、前秦にとって致命的だった。苻堅は矢傷を負って北へ逃れたが、従えていた諸民族の有力者たちは次々に自立した。鮮卑の慕容垂は後燕を建て、羌の姚萇は後秦を建てる。385年、苻堅はその姚萇に捕らえられ、殺された。華北は再び多くの国に割れ、386年に鮮卑の拓跋氏が北魏を建て(北魏の建国)、439年に華北を統一するまで混乱が続く(北魏の華北統一)。
史書に残る兵の数や逸話には、勝った側の誇張が混じっているとみる研究者が多い。それでも、大軍が一度の崩れで瓦解し、華北の統一が一気に失われたことは確かである。南の東晋は生き延び、江南の開発と文化はこの後も伸びていった。中国が再び一つになるのは589年、隋の中国再統一のときである。淝水の一戦は、南北の分裂をさらに200年続かせることになった。