鄭和
概要
雲南のムスリムの家に生まれ、少年で去勢されて宮廷に入り、七度の大航海を率いた。旗艦はコロンブスのサンタ・マリア号の数倍あったとされる。
所属
明関わったできごと(1)
鄭和の南海遠征1405年 · 総指揮本文
1371年、雲南の昆陽に生まれた。もとの姓は馬で、名は和。家はモンゴル支配の時代に中央アジアから来たムスリムの子孫とされ、祖父も父も、メッカへの巡礼を果たした者に贈られる「ハッジ」の呼び名で呼ばれていた。

1381年、朱元璋(洪武帝)の送った明の軍が雲南に攻め込み、元の残存勢力を滅ぼした。父はこの戦いの頃に死んだとされる。10歳ほどだった少年は捕らえられ、去勢されて明の宮廷に入れられた。仕えたのは北平(いまの北京)を治める燕王、のちの永楽帝である。体が大きく、才覚があったと伝わる。
1399年、燕王は甥の建文帝に対して兵を挙げた。靖難の変と呼ばれる内戦で、3年に及んだ。馬和はこの戦いで功を立て、1402年に燕王が南京を落として帝位に就くと重く用いられる。1404年、戦功のあった土地の名にちなんで鄭の姓を与えられた。宦官の長官の地位にあり、仏教徒の名ももっていたとされる。

永楽帝は彼に艦隊を任せた。目的は、新しい皇帝の威光を海の向こうに示し、諸国に朝貢を促すことだったと考えられている。行方の知れない建文帝を探すためという説も古くからあるが、確かではない。ムスリムであることは、インド洋のイスラーム圏を回るうえで有利に働いた。
1405年の最初の航海は、『明史』によれば62隻、2万7800人余りを乗せた。大きな船は長さ44丈、幅18丈と記され、そのまま換算すると長さ120メートルを超える。この数字は当時の造船技術から大きすぎるとする研究者も多く、実際の大きさは分かっていない。それでも、数十年後のコロンブスの船団と比べて、規模がけた違いだったことは確かである。

船を造ったのは南京の造船所で、1957年にはその跡地から長さ11メートルほどの巨大な舵の軸が掘り出された。舵の大きさから逆算すると、船もかなり大きかったと考えられるが、それでも記録どおりの寸法かどうかは決着していない。
鄭和の南海遠征は1405年から1433年まで7回に及んだ。東南アジアのチャンパ、ジャワ、スマトラを経て、セイロン、インド南西岸のカリカットへ。のちの航海ではペルシア湾の入口ホルムズ、アラビア半島のアデン、さらにアフリカ東岸のモガディシュやマリンディまで分遣隊が達した。マラッカでは新しい王国の後ろ盾となり、マラッカ王国の成立が明の保護の下で育つ。

航海は平和な使節だけではなかった。パレンバンでは海賊の頭目を捕らえて南京で処刑し、セイロンでは敵対した王を捕らえて連れ帰っている。セイロンのゴールには、1409年に鄭和らが建てた碑が残る。漢文、タミル語、ペルシア語の三つの言葉で、仏、ヒンドゥーの神、イスラームのアッラーにそれぞれ寄進を記したもので、相手の信仰に合わせた外交の跡を見せている。
航海の様子は、同行した者の書いた記録から分かる。通訳として加わったムスリムの馬歓は『瀛涯勝覧』を著し、訪れた国々の産物、風俗、言葉を書き留めた。費信の『星槎勝覧』もある。航路は後に兵書『武備志』に「鄭和航海図」として収められ、星の高さで位置を測る方法も記されている。最後の航海の前の1431年、福建の長楽で艦隊の安全を航海の女神に祈って建てた碑には、それまでの航海の経過が鄭和らの言葉で刻まれている。

1414年には、ベンガルの使節が連れてきたキリンが宮廷に献上された。中国では伝説の瑞獣の麒麟に見立てられ、皇帝の徳の証として絵に描かれた。
七度の航海のうち、六度は永楽帝の下、最後の一度は宣徳帝の下で行われた。永楽帝の死後、遠征は財政の負担として批判され、一時止められている。最後の航海の途上か直後の1433年ごろに死んだとされ、インド洋で水葬にされたという説と、南京の牛首山に葬られたという説がある。南京の墓は遺品を納めたものとも言われる。

彼の死後、明は大きな艦隊を出さなかった。北のモンゴルへの備えが優先され、民間の海外渡航を禁じる政策も続いた。航海の記録は、のちの官僚が無駄の証として焼いたという話も伝わるが、確かなことは分からない。ヨーロッパの船がインド洋に現れるのは、それから60年余り後になる。1511年には、鄭和の艦隊が寄港地としたマラッカがポルトガルに奪われた(マラッカの陥落)。
2000年代には、鄭和の艦隊がアメリカ大陸に先に着いていたという本がイギリスで売れたが、根拠に乏しく、歴史学者からはほぼ相手にされていない。一方、いまの中国では海洋進出の先駆者として顕彰され、2005年には航海600周年が国を挙げて祝われた。
東南アジアの華人社会では、三宝太監とも呼ばれた鄭和が神として祀られ、インドネシアのスマランには彼の名を冠した廟がある。
雲南の彼の故郷には、父の墓碑が残っている。1405年、最初の航海の直前に、鄭和が高官に頼んで書いてもらったものである。メッカへ巡礼した父の生涯をたたえる文が刻まれている。父の行けた場所より、はるかに遠くまで行った。