慶暦の改革
概要
西夏との戦争で財政が傾き、仁宗が范仲淹に改革を任せた。十事。官吏の昇進を実力で、科挙に策論を、田の整理。1年で反対され、范仲淹は地方へ。「天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」。25年後、王安石が同じことを大きく。
場所
34.80°N 114.31°E · 中国・河南省
関わった人(1)
范仲淹AD989年–AD1052年 · 改革本文
宋は、軍人が力を持ちすぎて王朝が次々に倒れた五代の混乱を教訓に、文官が国を動かす仕組みを作った王朝だった。科挙で選ばれた士大夫が政治を担い、軍は文官の監督の下に置かれた(宋の科挙と士大夫)。北の遼とは1004年に澶淵の盟を結び、毎年銀と絹を送る代わりに平和を買っていた。だがその仕組みは、11世紀のなかばには、官僚と兵の数が膨れ上がり、財政を圧迫するという問題を抱えていた。
1038年、西北の党項族の首長、李元昊が皇帝を名乗り、国号を大夏とした。宋の人々が西夏と呼ぶ国である(西夏)。元昊は独自の文字を作らせ(西夏文字の制定)、宋と対等の国であることを示した。宋は認めず、戦争になった。だが宋軍は、1040年の三川口、1041年の好水川、1042年の定川寨と、大きな戦いで続けて敗れた。この隙に北の遼が、かつて宋に奪われた地の返還を求めて圧力をかけ、宋は1042年、毎年送る銀と絹をそれぞれ10万ずつ増やすことで、ようやく遼をなだめた。

范仲淹は、989年に生まれ、2歳で父を亡くした。母が再婚したため、しばらくは別の姓を名乗って育った。自分の出自を知ると家を出て学問に打ち込み、粥を固めて四つに切り、朝夕に二切れずつ食べて勉強したという逸話が残る。1015年に科挙に合格して官僚となったが、宰相を批判するなど、言うべきことを言う人で、何度も地方へ飛ばされた。西夏との戦争が始まると、范仲淹は韓琦とともに西北の前線に送られた。范仲淹は無理に攻めず、砦を築いて守りを固め、兵を鍛え直した。西夏の側では、范の旦那は腹の中に数万の兵を持っている、と恐れられたという。1044年には、宋が西夏に毎年銀や絹、茶を送る代わりに、元昊が宋に臣と称する形で和議が結ばれた。
戦争で財政が傾き、国の仕組みの弱さがあらわになった。1043年、仁宗は范仲淹を都に呼んで参知政事(副宰相)に任じ、改革を求めた。范仲淹は「十事」と呼ばれる意見書を上げた。官吏の昇進を年功ではなく働きぶりで決める。高官の子弟が試験を経ずに官職を得る恩蔭の特権を制限する。科挙で、詩や賦の美しさより、政治を論じる力を問う。地方の長官をきちんと選ぶ。官吏に与える田を公平にする。農業と養蚕を勧める。兵を整える。民の労役を減らす。恩赦や法令を確実に行き渡らせる。いずれも、官僚の数と質を立て直すことに重心があった。各地の州や県に学校を設けることも、このとき進められた。
改革はすぐに抵抗にあった。昇進の基準や恩蔭に手をつけることは、官僚たち自身の既得の利益を削ることだった。范仲淹とともに改革を進めた韓琦、富弼、そして若い欧陽修らは、徒党を組んで朝廷を私している「朋党」だと非難された。欧陽修は『朋党論』を書いて、小人の党は利のために集まる偽りの党だが、君子の党は道のために集まる真の党であり、君子の党を用いれば天下は治まる、と反論した。だが、これがかえって、自分たちが党を組んでいると認めたものとして攻撃の口実になった。1045年のはじめ、范仲淹は都を去って地方に出され、改革の多くは1年あまりで取りやめになった。
翌1046年、范仲淹は、友人の滕宗諒が洞庭湖のほとりの岳陽楼を修築したのに頼まれて、その記念の文「岳陽楼記」を書いた。范仲淹は実際には楼を訪れずに書いたともいわれる。文の終わりで、范仲淹は古の仁者の心をこう述べた。天下の人々が憂えるより先に憂え、天下の人々が楽しんだあとで楽しむ。「先憂後楽」の言葉はここから生まれ、のちの士大夫たちが政治に向かう心構えとして掲げるものになった。東京の小石川後楽園や岡山の後楽園の名も、この一句に由来する。范仲淹は1052年に、任地へ向かう途中で死んだ。
慶暦の改革は短命に終わったが、そこで示された問題は残った。官僚と兵が増え、財政は赤字を重ねていく。25年後、神宗に登用された王安石が、同じ問題にもっと大きな規模で手をつける(王安石の新法)。范仲淹が人を選び直すことで官僚の質を変えようとしたのに対し、王安石は財政と兵制の制度そのものを作り変えようとした。そしてその改革もまた、士大夫たちを新法党と旧法党に二分する激しい党争を生むことになる。