概要
西夏との戦争で財政が傾き、仁宗が范仲淹に改革を任せた。十事。官吏の昇進を実力で、科挙に策論を、田の整理。1年で反対され、范仲淹は地方へ。「天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」。25年後、王安石が同じことを大きく。
場所
開封
34.80°N 114.31°E · 中国・河南省
34.80°N 114.31°E · 中国・河南省
関わった人(1)
范仲淹AD989年–AD1052年 · 改革本文
1038年、西夏の李元昊が皇帝を名乗り、宋と戦争になった。宋は三川口、好水川、定川寨で負け続けた。軍費が膨れた。遼が乗じて歳幣の増額を求め、宋は払った。
范仲淹は西北の戦線で、砦を築いて守り、「小范老子(范の旦那)は胸に数万の兵を持つ」と西夏の側に言われた。1043年、仁宗は范仲淹を参知政事(副宰相)に呼び、改革を求めた。范仲淹は「十事」を上げた。
官吏の昇進を年功でなく成績で。恩蔭(高官の子弟が試験なしで官になる)の制限。科挙で詩賦より策論を。地方官の選び方。田の収穫の整理。農業の奨励。軍の整理。法の統一。無駄な労役の削減。
慶暦の改革。1年で終わった。官吏の昇進と恩蔭に手をつけたので、官僚が反対した。范仲淹、韓琦、富弼、欧陽修は「朋党」だと言われた。欧陽修が『朋党論』を書いて「君子の党はある」と答えたが、それが証拠にされた。1045年、范仲淹は地方へ。
翌年、范仲淹は岳陽楼の記を書いた。「先天下之憂而憂、後天下之楽而楽」。天下の人が憂える前に憂え、天下の人が楽しんだあとで楽しむ。
25年後、王安石が同じ問題に、もっと大きく手をつけた。范仲淹が官僚の質を変えようとしたのに対し、王安石は制度を変えた。