人物

司馬遷

Sima Qian
BC145年頃 – BC86年頃(享年59・推定)
前漢重要度 5

概要

刑を受けてなお『史記』を書き上げた。紀伝体という書き方を作る。

所属

前漢

関わったできごと(1)

『史記』の完成BC91年頃 · 著者

本文

生年は紀元前145年とも紀元前135年とも言われ、はっきりしない。黄河のほとりの夏陽、竜門山の近くの生まれで、自身は幼い頃に田畑を耕し牧畜をしていたと書いている。父の司馬談は、漢の朝廷で天文と暦と記録を司る太史令の職にあった。

漢の武帝
漢の武帝Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

10歳で古い字体の書物を読み、20歳で長い旅に出た。長江と淮水の流域を巡り、会稽山では伝説の帝王禹が入ったという穴を探し、孔子の故郷魯では儒者たちの礼を見たと、『史記』の最後に置いた自序に書いている。各地で古老に話を聞き、遺跡を見て回ったこの旅が、のちの記述の土台になった。

やがて朝廷の郎中となり、西南の異民族の地へ使者として派遣された。紀元前110年、漢の武帝が泰山で天地を祀る封禅の儀式を行ったとき、父は病で随行できず、洛陽で死の床にあった。戻ってきた息子の手を取り、自分が始めた歴史書を完成させてほしいと託した。孔子が『春秋』を著して以来の記録が途絶えたままだ、というのが父の嘆きだった。

司馬遷の肖像(明代)
司馬遷の肖像(明代)Wikimedia Commons Photoed and reproduced by User:Mountain · Public domain

数年後、父と同じ太史令に就き、宮中の書庫の記録を読める立場になった。紀元前104年には新しい暦である太初暦の制定に関わっている。この頃から本格的に執筆を始めたとされる。

紀元前99年、将軍李陵が匈奴との戦いで、わずか5000の歩兵で数万の騎兵と戦った末に降伏した。武帝は激怒し、廷臣たちも李陵を責めた。司馬遷は意見を求められて、李陵は少数で大軍と戦い抜いたのであり、降ったのも機を見て漢に報いるためだろうと弁護した。これが武帝の怒りを買う。示されたのは、死罪か、宮刑か、金を納めて罪を贖うかだった。金は無く、助けてくれる友もいなかった。

司馬遷の墓と祠堂(陝西省韓城)
司馬遷の墓と祠堂(陝西省韓城)Wikimedia Commons dayu490301 · CC BY 3.0

その後、李陵が匈奴の兵を訓練しているという知らせが届き、武帝は李陵の母と妻子を処刑させた。この知らせは別の降将と取り違えた誤報だったと『漢書』は伝える。帰る道を断たれた李陵は、そのまま匈奴の地で生涯を終えた。

司馬遷は宮刑を受けた。士大夫にとって、死よりも重い恥とされた刑である。のちに友人の任安にあてた手紙で、なぜ死を選ばなかったかを書いている。人は誰でも一度は死ぬが、その死は泰山より重いこともあれば、鴻毛より軽いこともある。書きかけの書物を残したまま死ねば、自分の死は軽いものになる、と。この手紙は『漢書』に収められて残り、書かれた文章として今も読まれている。

刑の後、皇帝の側近として文書を扱う中書令に任じられた。宦官の就く職である。周囲から見れば出世だったが、本人はそれを喜んでいない。こうして書き上げたのが、自身は『太史公書』と呼んだ全130巻、自序によれば52万6500字の書物で、のちに『史記』と呼ばれる(『史記』の完成)。

扱う時代は、伝説の黄帝から武帝の時代まで、およそ2000年以上にわたる。構成は、帝王の年代記である本紀12巻、年表の表10巻、制度や天文、経済を扱う書8巻、諸侯の家の歴史である世家30巻、個人の伝記である列伝70巻。人物を中心に歴史を描くこの形を紀伝体という。

人の選び方に、司馬遷の見方が出ている。天下を取れずに死んだ項羽を帝王と同じ本紀に入れ、王でも諸侯でもない孔子や、秦への反乱の口火を切った農民の陳勝を世家に入れた。列伝には、暗殺者を集めた刺客列伝、任侠の者たちの游侠列伝、商人の貨殖列伝、医者の伝記、宮廷で笑いを取る者たちの滑稽列伝まである。国の正しい秩序の外にいた人々にも、それぞれの生き方の筋があるとみていた。

伯夷・叔斉の伝では、正しい人が飢え死にし、悪人が長寿を全うする現実を挙げて、天の道は正しいのか間違っているのかと問いかけている。勝者の記録をなぞるのではなく、運命の理不尽を書き留めようとする姿勢が、全体に通っている。宮刑を受けた本人の経験が重ねられていると読む人は多い。

自分が仕える皇帝についても遠慮しなかった。武帝の匈奴との戦争、塩や鉄の専売、神仙への傾倒を、批判の調子を含めて書いた。武帝の本紀は早くに失われ、いま伝わるものは後の人が別の巻から補ったものとされる。書物は名山に納め、副本を都に置くと自序にあり、生前には広まらなかった。宣帝の時代に、外孫の楊惲が世に出したと『漢書』は伝える。

晩年のことはほとんど分からない。死んだ年も、紀元前86年前後とされるだけで確かではない。武帝の死とほぼ同じ頃に世を去ったとみられる。

『史記』の紀伝体は、後漢の班固の『漢書』に受け継がれ、以後、中国の王朝が前の王朝の歴史を編む正史の型になった。清代まで続く二十四史の筆頭に置かれているのが『史記』である。項羽と劉邦、荊軻の暗殺未遂、臥薪嘗胆といった場面の多くは、この書物によって語り継がれてきた。日本の作家司馬遼太郎は、司馬遷に遼かに及ばない、という意味でその筆名をつけたと語っている。物語としての『史記』は物語「『史記』で読む中国」でたどれる。

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