永楽帝
概要
甥から帝位を奪い、南京から北京へ都を移した。紫禁城を建て、『永楽大典』を編ませ、鄭和を七度海へ出す。明が最も外を向いていた時期になる。
所属
明関わったできごと(1)
鄭和の南海遠征1405年 · 命じた本文
1360年、南京に生まれた。名は朱棣。父は、貧農から身を起こして元を北へ追い、明の成立を果たした朱元璋(洪武帝)である。その四男にあたる。生母は正式には馬皇后とされるが、別の妃の子だったという説も根強い。後に帝位を奪った人物であるため、出自そのものが政治の材料になった。

10歳で燕王に封じられ、20歳の頃から北平(いまの北京)に住んだ。元の旧都で、北へ逃れたモンゴルと向き合う最前線である。燕王はここで何度もモンゴル遠征に出て、実戦で鍛えられた軍と将を手元に持つようになった。洪武帝は息子たちを各地の王として配置し、国境を守らせていた。
1398年、洪武帝が死んだ。皇太子はすでに亡く、帝位を継いだのは皇太子の子、21歳の建文帝だった。若い皇帝と側近たちは、強大な兵を持つ叔父たちを恐れ、その領地と兵を次々に取り上げた。廃されて庶民に落とされた王もいれば、追い詰められて自ら焼け死んだ王もいた。

1399年、燕王は「君側の奸を除き、難を靖んずる」と称して挙兵した。これが靖難の変である。兵力では朝廷軍がはるかに多く、戦いは一進一退で3年続いた。燕王は正面の戦いにこだわらず、最後は南京へ一直線に軍を進めた。1402年、城門が内から開かれ、南京は落ちた。宮殿は炎に包まれ、建文帝は行方知れずになった。焼死したとも、僧の姿で逃れたとも言われ、その生存の噂は長く消えなかった。
即位した永楽帝は、建文帝に仕えた者たちを厳しく処罰した。即位の詔を書くよう命じられた学者の方孝孺は、これを拒んで処刑された。一族のみならず門人まで「十族」を殺されたと伝えられるが、この数字には誇張があるともされる。建文の年号は記録から消され、甥の治世は無かったことにされた。

帝位を力で奪ったという負い目を、永楽帝は事業の大きさで埋めるように見える。北平を北京と改め、ここに新しい都を造りはじめた。1406年に宮殿の工事を始め、1420年に完成させた。いまの紫禁城である。翌1421年、正式に都を北京へ移した。南の物資を北へ運ぶため、大運河の完成の水路も改修した。都を北の国境近くに置いたことは、皇帝自らがモンゴルに睨みをきかせるという宣言でもあった。
学問の面では、古今の書物を項目ごとに書き写して集めた『永楽大典』を編ませた。2万2000巻を超える空前の百科事典で、1408年に完成した。刊行はされず写本のみで、のちの戦乱でほとんどが失われ、いま世界に散って残るのは数百冊ほどである。

外に向けては、1405年から宦官の鄭和に大船団を率いさせ、東南アジア、インド、ペルシア湾、アフリカ東岸まで送り出した。永楽帝の代にこの航海は6回行われ、7回目は孫の宣徳帝の時代になる(鄭和の南海遠征)。各地の王に朝貢を促し、明の皇帝を中心とする秩序を海の向こうに示すのが狙いだった。日本の足利義満を「日本国王」に封じ、勘合による貿易を認めたのもこの時期である。南ではベトナムに軍を送って直接支配を試みたが、激しい抵抗に遭い、この支配は永楽帝の死後に放棄された。
北に向けては、自ら5度、モンゴル高原へ遠征した。皇帝の親征としては異例の多さである。決戦で敵を滅ぼすことはできず、モンゴルは引いてはまた現れた。

政治の内側では、宦官を重く用いた。皇位を奪う過程で宮中の宦官から情報を得ていたこともあり、宦官に監察と密偵の役目を与える東廠を設けた。これが明の後半、宦官が政治を動かす土台の一つになる。一方で、学者を選んで皇帝の補佐をさせる内閣の仕組みも、この頃から形を取りはじめた。
1424年、5度目の遠征の帰途、楡木川で病死した。64歳。北京の北の長陵に葬られ、ここから明の皇帝の陵墓が並ぶ十三陵が始まる。

永楽帝の死後、明の大航海はまもなく終わった。宣徳帝の代に最後の航海が行われたのち、遠洋の船団は二度と出なかった。費用がかさむことへの批判が強く、朝廷は北の守りと国内の安定へ力を移していく。1449年には皇帝がモンゴルに捕らえられる土木の変が起き、明は長城の内側に閉じこもる方へ向かった。
紫禁城と北京という都の形、内閣と宦官という政治の形。永楽帝が残したものの多くは、明が滅んだ後も清に引き継がれ、いまの北京の地図にもそのまま残っている。