金の燕京遷都
概要
女真の皇帝が、都を満洲の会寧府から燕京に移し、中都と名づけた。北京が王朝の都になった最初になる。以後、元・明・清がここに都を置く。
場所
39.90°N 116.41°E · 中国
本文
女真の人々は、いまの中国東北部の森と川のほとりで、狩りと農耕をして暮らしていた。長く契丹の契丹(遼)の建国に従っていたが、1115年、完顔部の阿骨打が皇帝を名乗って金を建てた(金の建国)。金は宋と結んで遼を滅ぼし、続いて宋を攻めて都の開封を落とし、皇帝の父子を北へ連れ去った。宋の皇族は南へ逃れて南宋を建て、淮河を境に、中国は北の金と南の南宋に分かれた。
金の都は、阿骨打が国を興した会寧府にあった。上京とも呼ばれ、いまのハルビンの近くになる。女真の故地の真ん中で、狩りと戦の伝統を守るには都合がよかった。だが、華北の広い平野と、そこに暮らす何千万もの漢人を治めるには遠すぎた。

1149年、皇族の完顔亮が、従兄の皇帝熙宗を殺して帝位を奪った。後に帝位を剥奪されて海陵王と呼ばれる人物になる。若い頃から漢文の詩文を好み、中国風の文化に強く惹かれていた。彼が目指したのは、女真の部族連合の長ではなく、中国の皇帝として天下を治めることだった。
1151年、海陵王は燕京の造営を命じた。燕京は、かつて遼が南京として副都を置いた町で、古くは戦国時代の燕の都があった土地になる。華北の平野の北の端にあり、万里の長城の内側で、東北の故地とも結ばれている。漢人の土地と女真の土地の、ちょうど結び目にあたる。

造営には大勢の職人と人夫が集められた。遼の南京の城を大きく広げ、宮殿は宋の都開封の宮殿を手本にした。開封から宮殿の部材を運ばせたとも伝わる。1153年、海陵王は燕京へ移り、都を中都と名づけた。いまの北京の西南の部分、広安門の外のあたりがその跡になる。発掘された水門の遺構が、いまも残っている。
海陵王は、女真の貴族たちの反対を力で抑えた。皇族や重臣を次々に殺し、1157年には会寧府の宮殿や貴族の屋敷を壊させ、跡を畑にさせた。祖先の陵墓も、中都の西南の大房山に移している。もう故地には戻らない、という意思を形にしたものだった。

だが、海陵王の野心は都で止まらなかった。南宋を滅ぼして天下を一つにしようと、1161年、大軍を率いて南へ攻め込んだ。南宋とは、秦檜が結んだ和議によって20年近く平和が続いていた。長江を渡ろうとした金軍は、采石で南宋の水軍に敗れた。その間に東北では、留守を預かっていた一族の完顔雍が帝位に就いていた。前線で孤立した海陵王は、部下の将たちに殺された。
それでも、都は動かなかった。後を継いだ世宗は、女真の言葉と習俗を守るよう説きながらも、中都を都として治め、金はその治世に最も安定した時代を迎えた。金は建国の早い時期に、漢字や契丹文字をもとに女真文字を作っており、世宗は女真語で経書を訳させ、女真人のための科挙も設けた。中国の皇帝として治めながら、女真であることも手放さない。その釣り合いをどう取るかが、金の歴代の皇帝の課題だった。
中都の西南を流れる盧溝河(いまの永定河)には、次の章宗の時代、1192年に石造りのアーチ橋が完成した。欄干に何百もの獅子の彫刻が並ぶこの橋は、のちにマルコ・ポーロが称えたと伝えられ、1937年には日中戦争の発端となる衝突の舞台になる(盧溝橋事件)。都の玄関口として架けられた橋が、いまも残っている。
13世紀に入ると、北からモンゴルが迫る。1214年、金は中都を捨てて南の開封へ逃れ、翌1215年、中都はモンゴル軍に落とされて焼かれた。半世紀後、フビライは焼け跡の東北に新しい都を築き、大都と名づけた(大元の国号)。明は一度南京に都を置いたが、永楽帝が北京へ移し、清がそれを継いだ。
北京は、中国の歴史の大半の時代を通じて、辺境の町だった。そこが天下の都になったのは、北から来た王朝が、北と南の両方を治めようとしたからになる。北京が王朝の都であることは、この1153年から始まる。