五胡十六国
概要
北方の諸族が華北に次々と国を建てた。漢人の政権は南へ逃げ、中国は130年あまり割れつづける。
場所
34.27°N 108.95°E · 中国・陝西省西安
本文
3世紀の末、三国の争いを終わらせた晋(晋による統一)は、わずか十数年で内側から崩れはじめた。291年から始まる皇族どうしの内戦(八王の乱)で、諸王は互いに争い、兵力を補うために、北方から移り住んでいた匈奴や鮮卑の兵を雇い入れた。
その前から、華北には多くの北方の民族が住んでいた。後漢の時代、南北に分かれた匈奴の南の一派は長城の内側に移り、漢の王朝に従う代わりに辺境に住むことを許された。その後も、鮮卑・羯・氐・羌の人々が、兵として、また農民や奴隷として華北の各地に入っていた。晋の時代には、長安の周辺の人口の半分近くがこうした人々だったとする当時の上奏文もある。彼らの多くは漢人の役人や地主に重い負担を課され、不満を抱えていた。

304年、匈奴の首長の劉淵が、山西で自立して漢王を名乗った。劉淵の家は、昔、漢の皇女が匈奴の単于に嫁いだことから漢の皇室の外孫を称し、劉という姓を名乗っていた。同じ年、四川では李雄が成都で自立している。五胡十六国の時代は、この304年から数えられる。
劉淵の後を継いだ劉聡の軍は、311年に晋の都の洛陽を落とし、皇帝を捕らえた。都は焼かれ、皇族や官僚の多くが殺された。この時の年号から「永嘉の乱」と呼ぶ。316年には長安も落ち、晋は一度滅びる。翌317年、江南にいた皇族の司馬睿が建康(いまの南京)で晋を立て直した(東晋の成立)。これを東晋と呼ぶ。華北の貴族や民衆の多くが、戦乱を逃れて長江を越えて南へ移った。

華北に残されたのは、興っては滅びる国々の連なりだった。匈奴の劉氏の国のあとには、奴隷の身から身を起こした羯の石勒が後趙を建てた。鮮卑の慕容氏が東北から入って燕を名乗り、氐の苻氏が長安に秦を建てた。このうち前秦の苻堅は、漢人の宰相王猛を用いて華北を一度統一し、383年には天下統一を目指して大軍で南へ向かった。だが淝水の戦い(淝水の戦い)で東晋に敗れ、前秦はたちまち崩れて、華北は再び分裂する。
五胡とは、匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の五つの民族を指す。十六国という数は、6世紀に北魏の崔鴻が著した歴史書『十六国春秋』に取り上げられた国の数による。実際には、そこに数えられない国も多く、一つの国が短い間に二度三度と興り、境界はめまぐるしく変わった。

この時代を、北方の民族が中国を荒らした時代とだけ見ることはできない。支配者が替わっても、華北の農地と、そこを耕す人々は動かなかった。北方の民族の君主たちは、広い土地を治めるために、漢人の官僚と、漢字で書かれた文書と、税の仕組みを使わざるをえなかった。君主の多くは儒教の経典を学び、漢風の都と宮殿を築いた。
仏教がこの時代に深く根を下ろしたことも大きい。後趙では西域から来た僧の仏図澄が君主に重んじられ、後秦の長安では西域出身の鳩摩羅什が大規模な経典の翻訳を行った(鳩摩羅什の長安入り)。漢人の伝統の外から来た君主たちにとって、外から来た教えである仏教は受け入れやすかった。399年には、東晋の僧の法顕がインドへ経典を求める旅に出ている。

南の東晋では、北から逃れた貴族たちが江南の開発を進めた。書の王羲之はこの時代の人である。中国の経済と文化の重心が南へ移っていく流れは、ここから始まる。
439年、鮮卑の拓跋氏が建てた北魏が、最後に残った北涼を滅ぼして華北を統一した(北魏の華北統一)。これで五胡十六国の時代は終わり、南北に王朝が並ぶ南北朝の時代に入る。北魏は土地を民に配る均田制を作り、孝文帝は494年に都を洛陽へ移して、鮮卑の言葉や服装を禁じ、姓を漢風に改めさせた(孝文帝の洛陽遷都と漢化)。支配する側が、自分から同化しようとしたのである。

589年に中国を再び統一した隋(隋の中国再統一)と、それに続く唐の皇室は、北魏の流れをくむ北方の軍人の家から出ており、鮮卑系の名門と婚姻で深く結ばれていた。均田制や府兵制も、北朝から受け継いだものである。130年あまりの分裂の中で、北方の民族と漢人が混じり合い、「中国」の中身が入れ替わっていた。