できごと

『淮南子』

Huainanzi
BC139年
重要度 3
『淮南子』に関わる図版:莊逵吉本《淮南子》
莊逵吉本《淮南子》 Wikimedia Commons https://www.google.com.hk/search?hl=zh-TW&site=imghp&tbm=isch&source=hp&biw=1366&bih=643&q=淮南子&oq=淮南子&gs_l=img.3...0.0.0 · Public domain

概要

淮南王が数千の学者を集めて編んだ21巻。老荘、陰陽、儒、法、天文、地理。宇宙の生成から統治まで。武帝に献じた。17年後、王は謀反で自死し、連座した数千人が罰せられた。本だけが残った。豆腐を発明したという伝説もある。

場所

寿春
32.58°N 116.79°E · 中国・安徽省寿県

関わった人(1)

劉安(淮南王)BC179年–BC122年 · 編纂

本文

編ませたのは劉安(淮南王)、淮南の王である。祖父は漢を開いた劉邦。父の劉長も淮南王だったが、謀反の疑いで流され、その途中で死んだ。劉安は父の死から十年ほどのちに淮南王に戻され、都の寿春(いまの安徽省寿県)に宮廷を構えた。若いころから読書と琴を好み、狩りや馬には関心が薄かったと伝えられる。

『漢書』の伝によれば、劉安は「賓客と方術の士、数千人」を招いた。学者、文人、占いや仙術を説く者たちである。彼らとともに『内書』21篇を作り、『外書』はさらに多く、別に神仙や錬金の術を論じた『中篇』8巻があって、これも20万字を超えたという。このうち今に残るのが『内書』で、これが『淮南子』にあたる。劉安自身は「鴻烈」と名づけた。後漢の注釈者は、鴻は大、烈は明るさの意だと説明している。

安徽省における淮南市の位置
安徽省における淮南市の位置Wikimedia Commons Croquant · CC BY 3.0

全21篇は「原道」に始まる。道は天を覆い、地を載せ、すべての根にある、という老荘の思想が土台になる。続いて「天文」「地形」「時則」で天体の運行と大地の形、季節ごとの政治の決まりを語り、「主術」で君主の統治を、「兵略」で戦を、「人間」で人の世の禍福を論じる。最後の「要略」は、全体の狙いを著者自身が説明する篇で、この書が一つの思想に偏らず、天地から人事までを貫く道を示そうとしたことが分かる。『漢書』の目録は、これを儒家でも道家でもなく「雑家」に分けた。老荘を軸にしながら、陰陽、儒、法、兵の考えをまとめて取り込んでいるからである。

中には、のちの中国でよく知られる話が多く入っている。「人間訓」の、国境の老人の馬の話がそうだ。馬が逃げ、異民族の良馬を連れて帰り、息子がその馬から落ちて足を折り、戦が起きて若者が多く死ぬなか、息子は足のせいで生き残る。のちの「塞翁が馬」である。女媧が天の裂け目を補った話、羿が十の太陽を射落とした話、その妻が不死の薬を盗んで月へ逃げた話も、まとまった形で見える古い文献の一つがこの書である。「天文訓」には二十四節気の名が一通りそろって現れ、往古来今を宙、四方上下を宇と言う、という「宇宙」の説明も書中に見える。

書が献じられたのはBC139年、漢の武帝の治世の初めである。武帝はまだ十代の後半、叔父にあたる劉安は四十歳前後だった。朝見した劉安が新しくできた内篇を差し出すと、武帝はこれを愛して秘蔵したという。屈原の詩の解説を命じられると、朝に命を受けて昼の食事どきには書き上げたとも伝わる。このころ朝廷では、黄老の学を好む祖母の竇太后がなお力を持っていた。数年後、竇太后が没すると、武帝は儒学を重んじる方へ大きく舵を切る(儒学の官学化)。『淮南子』は、その転換の直前に差し出された、もう一つの国の設計図だったとも読める。

だが劉安の立場は危うかった。『史記』によれば、同じ朝見のとき、外戚の田蚡が「陛下には太子がなく、王は高祖の孫で、仁義の評判も高い。万一のことがあれば、王のほかに誰が立つでしょう」とささやき、劉安は喜んで彼に贈り物をしたという。BC154年の呉楚七国の乱のときも、劉安は呼応しようとして、宰相に兵を押さえられ、かえって漢の側に立つ形になっていた。のちに武器を整え、謀反をはかったとされる。

BC122年、計画は露見した。内部の者や一族の告発がきっかけで、劉安は自ら首をはねて死んだ。王后と太子も処刑され、国は廃されて郡になった。『史記』は、謀反に連なった列侯や高官、豪傑ら数千人が、罪の重さに応じて誅されたと記す。集められていた賓客たちがどうなったのかを一人ずつ語る史料はないが、宮廷はここで終わった。書だけが、朝廷の書庫に残った。

劉安には死後、別の物語が生まれる。八人の仙人に導かれて仙薬を飲み、天に昇ったという話で、薬の残りをなめた鶏と犬まで空へ昇った、と語られた。寿春の近くの山は、いまも八公山と呼ばれる。後漢の王充は『論衡』でこの話を取り上げ、謀反で死んだ者が仙人になるはずがないと退けた。豆腐を発明したのが劉安だという話も、宋の時代には広く言われていた。朱熹(朱子)の詩にも「淮南の術」として出てくる。ただ、豆腐を確かに記した文献は10世紀ごろまで下り、漢代にさかのぼる証拠はない。伝説と見るのがふつうである。それでも淮南の町は、いまも豆腐の名所を名乗っている。

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