梁の武帝の捨身
概要
皇帝が同泰寺に入って自分を寺に施し、群臣が一億銭で買い戻した。四度。肉を断ち、一日一食、48年在位して「皇帝菩薩」。侯景の乱で台城に囲まれ、86歳で「自分で得て自分で失った」と言って餓死した。
場所
32.06°N 118.80°E · 中国・江蘇省
関わった人(1)
蕭衍(梁の武帝)AD464年–AD549年6月12日 · 皇帝本文
蕭衍(梁の武帝)は、464年に南朝の斉の皇族の一族に生まれた。若いころは学問と文学に秀で、斉の皇族の竟陵王のもとに集まった文人たちの中で、「八友」の一人に数えられた。斉の末に暴君が現れて国が乱れると、蕭衍は地方から兵を挙げて都の建康(いまの南京)を落とし、502年、自ら帝位に就いて梁を建てた。
武帝の治世の前半は、南朝で最も安定した時代の一つだった。武帝は勤勉で、冬でも夜明け前に起きて政務を見たといい、学校を建て、官吏の登用に試験を取り入れ、法を整えた。武帝の子の昭明太子蕭統は、古今の名文を集めた『『文選』』を編み、梁の都は南朝の文化の頂点を迎えた。北の北魏が内乱で東西に割れていく中で、梁は半世紀近く大きな戦乱を免れた。

武帝は若いころ道教を信じていたが、即位からまもなく仏教に帰依した。その信仰は、皇帝としては比べるもののないほど深かった。肉と魚を断ち、酒を断ち、僧たちにも肉食を禁じた。中国の仏教の僧が肉を食べないという習わしは、このとき武帝が定めた戒めに始まるとされる。517年には、宗廟の祭りに捧げる犠牲の牛や羊を、小麦粉で作った形代に替えさせた。519年には、自ら菩薩戒を受けた。一日に一度、豆と野菜の食事をとり、粗末な衣を着て、晩年には数十年にわたって女性を遠ざけたと伝えられる。
527年、武帝は都の同泰寺に赴き、皇帝の衣を脱いで僧の衣に着替え、自分の身を寺に捧げた。これを「捨身」という。皇帝が自分を三宝(仏と法と僧)の奴となって施したのである。4日ののち、武帝は宮殿に戻った。529年の二度目の捨身では、武帝は寺で寝起きし、掃除をし、経を講じた。皇帝のいない朝廷は困り果て、群臣たちは銭1億を寺に納めて、皇帝の身を「買い戻した」。捨身は546年と547年にも繰り返された。そのたびに莫大な銭が寺に入った。人々は武帝を「皇帝菩薩」と呼んだ。

慈悲の心は政治にも及んだ。武帝は死刑を減らし、重い罪の判決に判を押すときには涙を流したという。皇族や高官の罪にも寛大で、弟の蕭宏が謀反を企てたことが明らかになっても、罰しなかった。だがその寛大さは、法がゆるみ、皇族や貴族が好き放題にふるまうことにもつながった。役人の郭祖深は、都には500を超える寺があり、僧尼は10万人を超え、寺の財産は豊かで、このままでは天下の戸口の半ばが失われてしまう、と上書して諫めた。武帝は聞き入れなかった。後世の禅の伝えには、インドから来た達磨が武帝に会い、寺を建て僧を養った功徳を問われて「無功徳」と答えた、という問答があるが(達磨の渡来(伝承))、これは後の時代に作られた話とされる。
破局は北から来た。547年、東魏の将軍侯景が、河南の地をもって梁に降りたいと申し出た。群臣の多くは反対したが、武帝は受け入れた。だが梁の軍は東魏に敗れ、侯景もわずかな兵とともに南へ逃れてきた。やがて梁が東魏と和を結び、侯景を引き渡すのではないかという疑いが広がると、548年、侯景は兵を挙げて長江を渡り、都の建康に攻め込んだ(侯景の乱)。
武帝は宮城の台城に籠もった。城の中には多くの人が逃げ込み、囲みはおよそ130日に及んだ。食糧が尽き、城内には疫病が広がり、死者が積み重なった。各地の皇族たちは援軍を率いて都の近くまで来たが、互いに争い、本気で戦おうとしなかった。549年、台城は落ちた。城が落ちたと聞いた武帝は、自分で得たものを自分で失ったのだ、何を恨むことがあろう、と言ったと伝えられる。
武帝は侯景に囚われ、食事も満足に与えられなかった。病の床で、口が渇いて蜜を求めたが与えられず、うめき声をあげて死んだという。86歳だった。梁は侯景の乱で荒れ果て、557年に陳に取って代わられた。
唐の詩人杜牧は、江南の春を詠んだ詩に、南朝の四百八十の寺、多くの楼台が煙る雨の中に、と書いた。その寺の多くを建てたのは、梁の武帝だった。仏の教えに最も深く帰依した皇帝が、最も惨めな最期を遂げたこと。それは後世、仏教が国を滅ぼした例として、仏教を批判する人々に繰り返し持ち出された。一方で、歴史家の中には、梁の滅亡の原因は信仰そのものではなく、皇族と貴族を甘やかし、法と軍の規律を失わせたことにある、と見る人も多い。