蘇武の帰還
概要
匈奴に使者として行き、捕えられ、降らなかった。北海(バイカル)で羊を飼った。19年。「雄の羊が乳を出したら帰す」。漢の使者が「雁の足に手紙が」と嘘を言って取り戻した。髭は白く、節(使者の杖)の飾りは落ちていた。忠の型になった。
場所
34.27°N 108.95°E · 中国・陝西省西安
関わった人(1)
蘇武BC140年–BC60年 · 帰った本文
漢の漢の武帝の時代、漢と北の遊牧の国匈奴は、何十年も戦いを続けていた。紀元前100年、匈奴に新しく立った且鞮侯単于は、漢は自分にとって父の世代にあたると低姿勢を見せ、それまで引き留めていた漢の使者を送り返してきた。武帝はこれに応えて、答礼の使いを送ることにした。選ばれたのが、中郎将の蘇武である。蘇武は、皇帝の使いであることを示す節(竹の柄に旄牛の毛の飾りをつけた旗印)を持ち、副使の張勝、属官の常恵ら100人あまりを連れて北へ向かった。
ところが匈奴の地で、思わぬ事件に巻き込まれる。匈奴に降っていた漢人の虞常らが、匈奴の王族の緱王と組んで、単于の母を連れ去って漢に逃げようと企てた。副使の張勝はこの計画をひそかに知り、手助けしていた。計画は発覚し、蘇武にも累が及ぶ。蘇武は、使者が辱めを受ければ国を辱めることになると言って、自ら剣で胸を突いた。匈奴に仕えていた漢出身の衛律が驚いて医者を呼び、地面に穴を掘って弱い火を入れ、その上に蘇武をうつぶせに寝かせて背を踏み、悪い血を出させて命を救ったという。

単于は蘇武の気骨を惜しみ、なんとか降らせようとした。衛律は、自分は降って王に取り立てられ、何万の民と家畜を持っている、あなたも降れば同じになる、と誘った。蘇武は応じなかった。単于は蘇武を大きな穴蔵に閉じ込め、食べ物も飲み物も与えなかった。蘇武は降ってくる雪と、敷物の毛を一緒にかみ、数日たっても死ななかった。匈奴の人々は、これは神ではないかと恐れた。
単于は蘇武を北海(いまのバイカル湖とされる)のほとりに送り、雄の羊を飼わせた。雄の羊が乳を出したら帰してやる、という。決して帰さないという意味である。食糧も届かず、蘇武は野ネズミが巣穴にためた草の実を掘り出して食べた。それでも節を手放さず、寝るときも羊を追うときも持ち歩き、やがて節の毛の飾りはすべて抜け落ちた。

紀元前99年、漢の将軍李陵が匈奴との戦いに敗れて降った。旧知の李陵は単于に命じられて北海を訪れ、酒を酌み交わしながら、蘇武の兄も弟も罪を得て自ら死に、母も亡くなり、妻は再婚したと伝え、漢に義理を立てても仕方がないと降伏を勧めた。蘇武は、臣が君に仕えるのは子が父に仕えるのと同じで、子が父のために死ぬのを恨むことはない、と答えた。李陵は、蘇武は真の義士だ、自分と衛律の罪は天に届く、と泣いて去ったと『漢書』の蘇武伝は記す。李陵をかばった司馬遷が宮刑を受け、『『史記』の完成』を書き上げたのは、この同じ時代のことである。
紀元前87年に武帝が死に、幼い昭帝の時代になると、漢と匈奴は和解に向かった。漢の使者が蘇武を返すよう求めると、匈奴は蘇武はもう死んだと偽った。このとき、ともに捕らえられていた常恵がひそかに夜の間に漢の使者に会い、知恵を授けた。使者は単于に、天子が都の上林苑で狩りをして雁を射落としたところ、その足に絹の手紙が結ばれていて、蘇武はどこそこの沢にいると書いてあった、と告げた。単于は驚いて左右を見回し、詫びて蘇武を返したという。

紀元前81年の春、蘇武は長安に帰り着いた。匈奴へ発ったときに従っていた100人あまりのうち、ともに帰ったのは9人だった。発ったときは40歳前後で、帰ったときには髭も髪も真っ白になっていた。19年が経っていた。蘇武は武帝の廟に参って帰国を報告し、異民族のことを扱う典属国の役を与えられた。
帰国のあとも平穏ではなかった。翌年、息子の蘇元が謀反の企てに加わって処刑され、蘇武自身も一時は職を失った。それでも紀元前74年に宣帝が即位するときには、その擁立に加わって爵位を得た。匈奴の地で妻とした女性との間に生まれた子、通国は、宣帝が金を出して漢に迎え入れた。蘇武は紀元前60年、80歳を超えて死んだ。紀元前51年、宣帝が功臣11人の肖像を麒麟閣に描かせたとき、蘇武はその最後に名を連ねた。
蘇武は、どんな境遇にあっても主君と国を裏切らない忠の手本として、のちの中国で長く語り継がれた。羊を追う老人の姿は「蘇武牧羊」の題で絵や芝居や歌になった。李陵が蘇武に宛てたとされる長い手紙も伝わるが、後の時代の作とみられている。雁の足の手紙の話から、手紙のことを「雁書」「雁の使い」と呼ぶ言葉が生まれ、日本語にも入った。日本では、中島敦の小説『李陵』が、降った李陵と降らなかった蘇武、そして書き続けた司馬遷の三人を並べて描いている。