三国の鼎立
概要
魏が漢の禅譲を受け(220)、蜀が漢を継ぐと称し(221)、呉が帝を名乗った(229)。中国が三つに割れる。
関わった人(3)
曹操155年–220年3月15日 · 前提を作った劉備AD161年–AD223年 · 蜀孫権AD182年–AD252年 · 呉本文
2世紀の終わり、400年続いた漢はすでに内側から崩れていた。宮廷では宦官と外戚が争い、地方では飢饉と重い負担が農民を追い詰めた。184年、太平道の信者たちが黄色い頭巾を巻いて一斉に立ち上がった。黄巾の乱である。反乱そのものは鎮められたが、討伐のために兵を集めた各地の豪族や将軍が、そのまま自分の軍を持つ勢力になった。
189年、将軍の董卓が都の洛陽に乗り込んで皇帝を立て替え、まもなく都を長安へ移した。漢の朝廷は、もはや天下を動かす力を失った。各地で群雄が争うなか、196年、曹操が若い献帝を自分の本拠の許に迎えた。皇帝を手元に置き、その名で命令を出すことができるようになる。200年の官渡の戦いで北の袁紹を破り、華北をほぼ手にした。

曹操が天下統一に最も近づいたのは208年だった。南へ下って荊州を得、長江を下ろうとしたところで、孫権と劉備の連合軍に阻まれた。赤壁の戦いである。この敗北で、中国が一つの力でまとまる見込みは遠のいた。劉備はその後、荊州の一部と、さらに西の益州(今の四川)を手に入れ、孫権は長江の下流域を固めた。三つの勢力の形が、ここでほぼ定まる。
220年の正月、曹操が死んだ。息子の曹丕が後を継ぎ、その年の秋に献帝から禅譲を受けて皇帝の位についた。国号は魏、都は洛陽である。武力で奪うのではなく、徳のある者に位を譲るという古い理想の形式をとった。400年続いた漢は、形式の上でもここで終わる。

翌221年、劉備が成都で皇帝に即位した。国号はあくまで漢であり、後の人は区別して蜀漢、あるいは蜀と呼ぶ。漢の皇族の血を引くという劉備にとって、魏は帝位を奪った簒奪者であり、自分こそが漢の正統な後継ぎだという主張になる。劉備はすぐに、殺された義弟関羽の仇を討とうと呉へ攻め込んだが、222年に夷陵の戦いで呉の陸遜に大敗し、翌年、白帝城で死んだ。後のことは丞相の諸葛亮に託された。
孫権はしばらく様子を見ていた。劉備と戦うあいだは魏に臣従して呉王の位を受け、その後、魏と手を切って独自の年号を立てた。皇帝を名乗ったのは229年である。こうして、三人の皇帝が並び立った。

諸葛亮は南方の平定のあと、魏への北伐を繰り返した。しかし国力の差は大きく、234年、五丈原の陣中で病死する。その後の魏では、曹氏に代わって重臣の司馬氏が実権を握った。263年に魏が蜀を滅ぼし、265年には司馬炎が魏の皇帝から禅譲を受けて晋を建てた。280年に呉が降り、晋による統一で三国の時代は終わる。魏が漢から受け取ったのと同じ形で、魏もまた位を譲らされた。
この時代の暮らしは、物語の華やかさとはほど遠かった。戸籍の上の人口は、後漢の半ばに5000万人を超えていたのが、三国時代には三国合わせて数百万人にまで減っている。戦乱で逃げ散った人々や、豪族に抱え込まれて戸籍から外れた人々が多いため、実際の人口の減り方はこれほどではなかったと考えられているが、それでも大きな犠牲があったことは疑いない。

人が減り、荒れた土地が広がるなかで、三国はそれぞれ生き残りの仕組みを作った。曹操は、持ち主のいなくなった土地に流民や兵士を入れて耕させ、収穫を国が取る曹操の屯田を始めていた。魏は、220年に役人を家柄と評判で九つの等級に分けて推薦させる九品官人法を採った。人材を広く集めるための制度だったが、やがて名門の家が高い等級を独占する道具になり、以後数百年の貴族の時代を形作る。呉は長江の南の開発を進め、それまで辺境だった江南が、のちに中国の豊かな中心になっていく出発点の一つになった。
日本とのつながりもこの時代にある。239年、倭の女王卑弥呼が魏に使いを送り、「親魏倭王」の称号と金印、銅鏡などを授けられた(卑弥呼の遣使)。魏が遠い倭の使いを手厚く迎えたのは、海の向こうの呉を意識していたためだとする見方がある。この記録が残っているのは、陳寿の『三国志』の魏書の中の、東の諸民族について書いた部分で、日本では魏志倭人伝と呼ばれている。

この時代が語り継がれるのは、出来事の重要性より、物語として面白いことによる。正史の陳寿『三国志』は、蜀に仕えたのち晋の役人になった陳寿が3世紀の終わりに書いた。晋は魏から位を受けた王朝だから、陳寿は魏を正統として書いている。5世紀には裴松之が、陳寿が使わなかった多くの記録を集めて注を付けた。
これに対して、14世紀ごろに成立した小説『三国志演義』は、蜀を正統とし、劉備を仁徳の君主、曹操を奸雄として描いた。諸葛亮は風を呼び、敵の計略をすべて見通す超人になる。清代の学者は、この小説を七分が事実、三分が虚構と評した。正統をどこに置くかは時代によって揺れており、宋代には司馬光が魏の年号で歴史を書き、その後の朱熹は蜀を正統とした。

どちらを正統とするかで、同じ出来事の書き方が変わる。日本での知名度は、ほぼ演義によっている。江戸時代に翻訳が読まれ、昭和には吉川英治の小説、横山光輝の漫画、そしてゲームが、その物語を広げた。日本人が思い浮かべる三国志の多くは、正史ではなく演義の世界である。