できごと

常平倉

Buffer stock scheme
BC54年
重要度 4
古シベリアの狩猟採集民前漢フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民匈奴クシャーナ朝スキタイマウリヤ朝サカシャンシュン王国アイヌMin-YueNan-Yueヒンドゥーの諸王国新羅シンハラBC54年長安
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC54年の版図を描いています(15勢力)。

概要

豊作の年は米が安く、農民が困る。凶作の年は高く、都市の貧民が困る。前漢の宣帝の時代、耿寿昌が提案した。国家が、安い年に買い上げ、高い年に放出する。価格を平らにするので常平という。米を蓄えるだけでなく、市場に介入して値を動かす仕組みである。隋唐の義倉、宋の社倉、そして朝鮮の還穀と日本の江戸期の囲米へ。1938年、アメリカの農業調整法にも同じ名の制度が入った。農務長官ヘンリー・ウォレスが、中国の古典から取ったと述べている。

場所

長安
34.27°N 108.95°E · 中国・陝西省西安

本文

豊作の年には穀物が余り、値が下がる。農民は作っても金にならず、税を払うために安く売るしかない。凶作の年には穀物が足りず、値が上がる。今度は町の貧しい人々が買えなくなる。豊作でも凶作でも、誰かが困る。そしてその差で儲ける者がいる。安い年に買い集めて蔵に積み、高い年に売る商人である。古代中国の為政者は、この繰り返しを国家の仕事として引き受けるかどうかを、長く議論してきた。

前漢の宣帝の五鳳4年(紀元前54年)、大司農中丞の耿寿昌が一つの仕組みを上奏した。耿寿昌は算術に長けた役人として知られ、後漢末の劉徽は、彼が『九章算術』の整理に関わったと書いている。彼が勧めたのは、辺境の郡に穀物の倉を建て、穀物が安いときは相場より高く買い上げ、高いときは相場より安く売り出すことだった。値を常に平らにならす倉、という意味で常平倉と名づけられた。

ただ蓄えて飢饉に配るのではない。国家が買い手と売り手として市場に入り、値そのものを動かす。そこがこの制度の新しさだった。『漢書』の完成の食貨志は、この倉ができて民がその便を喜んだと記している。都へ穀物を運ぶ費用を減らす狙いもあり、辺境の兵糧を地元で賄えるようになった。

反対もすぐに出た。宣帝の次の元帝の時代、初元5年(紀元前44年)に、常平倉は廃止される。国家が商人のように売り買いをして民と利を争うべきではない、という儒者たちの主張が通ったのである。これは耿寿昌の上奏より四半世紀ほど前、紀元前81年の塩鉄会議と同じ構図だった。国家は経済に手を入れて値を守るべきか、手を引いて民に任せるべきか。この問いは、この後の中国史に何度も戻ってくる。

常平倉は廃止と復活を繰り返しながら、名前ごと後の王朝に受け継がれた。それとは別の系統として、585年、隋の文帝のもとで長孫平の提案による義倉が始まる。こちらは値をならすためではなく、災害への備えである。民から穀物を出させて村ごとに蓄え、凶作の年に配る。初めは村の自治的な蓄えだったが、やがて国が管理するようになり、実際には税の一種に変わっていった。

宋の時代には、朱熹(朱子)が社倉を作った。1168年、福建の崇安で飢饉が起きたとき、朱熹は官の穀物を借りて飢えた人々に貸し出し、秋に利子を付けて返させた。数年後には村に専用の倉を建て、利子で元本を増やしながら村人が自分たちで運営する形にした。朱子学が広まると、社倉は儒者の理想の実践として東アジア各地で手本にされた。

朝鮮王朝の還穀は、春に穀物を貸し、秋に利子を付けて返させる制度である。もとは困窮した農民を助ける仕組みだったが、利子が地方の役所の大切な財源になるにつれて、取り立てが厳しくなった。19世紀には土地の税、軍役の代わりの布、そして還穀の三つの乱れ(三政の紊乱)が農民を追い詰め、1862年の壬戌民乱、さらに1894年の東学農民戦争の背景になった。

東学農民戦争に関わる図版:Jeon Bong-jun under arrest (27 February 1895)
東学農民戦争Wikimedia Commons Murakami Tenshin (村上天眞) · Public domain

日本にも同じ考えは入っている。大宝律令は義倉を定め、戸ごとに粟を出させて蓄えさせた。江戸時代には、天明の飢饉で東北を中心に多くの命が失われた後、松平定信の寛政の改革が備えを強めた。1789年には大名に領内での米の備蓄(囲米)を命じ、江戸の町には町の経費を切り詰めた分の7割を積み立てさせた。いわゆる七分積金である。この積立金は明治の東京府に引き継がれ、渋沢栄一らが関わった養育院や道路・橋の整備に使われた。

意外な行き先はアメリカだった。1930年代、大恐慌の中で農産物の値が暴落し、ニューディールの農業政策は余った作物をどうするかに悩んでいた。農務長官ヘンリー・A・ウォレスは「常に平らな倉(ever-normal granary)」という言葉を掲げ、1938年の農業調整法に、豊作の年に政府が作物を担保に農民へ金を貸して市場に出さずに済むようにし、不足の年に放出する仕組みを入れた。ウォレスは、この発想を中国の常平倉から得たと述べている。陳煥章が1911年にコロンビア大学へ出した英文の博士論文『孔門理財学』が、常平倉を英語圏に紹介していた。

ニューディールに関わる図版:New Deal collage
ニューディールWikimedia Commons LordHarris at English Wikipedia · Public domain

いまも、穀物や石油を国が蓄えて値と供給を支える仕組みは世界中にある。日本の政府も、およそ100万トンを目安に米を備蓄している。一方で、国が蓄えて買い支えることは市場を歪める補助金ではないか、という議論も続く。世界貿易機関の後の交渉では、途上国の食糧備蓄の扱いが争点になり、2013年のバリでの閣僚会議で、インドの強い主張を受けて当面は問題にしないという取り決めが結ばれた。

2000年以上前にひとりの役人が上奏した倉は、何度も廃止され、批判され、姿を変えながら、名前ごと太平洋の向こうまで渡った。国家は値動きにどこまで手を出すべきかという問いも、同じだけ長く続いている。

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