人物

玄宗

Emperor Xuanzong of Tang
AD685年 – AD762年(享年77・推定)
唐重要度 4

概要

韋后を倒して父を帝位に就け、自分が継いだ。開元の30年は唐の絶頂。晩年、息子の妃だった楊貴妃を奪い、安禄山に国を壊され、蜀へ逃げる途中で兵に妃を殺された。都に戻って上皇として6年、幽閉されて死んだ。

所属

唐

関わったできごと(3)

開元の治AD713年 · 皇帝安史の乱755年 · 皇帝馬嵬の変AD756年 · 皇帝

本文

685年に生まれた。名は李隆基。父は唐の皇帝の一族の李旦(のちの睿宗)で、祖母は則天武后である。隆基が5歳の690年、祖母は唐を廃して自ら皇帝となり、国号を周と改めた(則天武后の即位)。唐の皇族は監視され、一族の多くが殺された。隆基の母も、祖母に呪いの疑いをかけられて宮中で殺されている。7歳の隆基が、宮中で行列を咎めた武氏一族の高官を、ここは私の家の朝廷だ、お前に何の関わりがある、と叱りつけ、祖母がかえってこの孫を気に入った、という話が伝わる。

『鶺鴒頌』孤本、台北國立故宮博物院
『鶺鴒頌』孤本、台北國立故宮博物院Wikimedia Commons 李隆基 · Public domain

705年、老いた武則天は退位を迫られ、唐が復活した。伯父の中宗が帝位に戻ったが、実権は皇后の韋氏とその娘の安楽公主が握った。韋后は武則天にならって自ら帝位に就こうとしていると見られた。710年6月、中宗が急死した。韋后と安楽公主が毒を盛ったと噂された。韋后は幼い皇子を帝位につけ、自ら政治を執ろうとした。

その数週間後の夜、25歳の隆基は、叔母の太平公主と手を組み、禁軍の兵を率いて宮中に攻め入った。韋后と安楽公主は殺され、韋氏の一族も除かれた。隆基は父の李旦を帝位につけた。睿宗である。隆基は兄に代わって皇太子となり、712年、父から位を譲られて即位した。翌713年、政治に口を出し続けていた太平公主の一派を討ち、公主に死を命じた。女性が皇帝の後ろで力を振るう時代は、こうして終わった。

玄宗はまず、腕の立つ宰相を用いた。姚崇、宋璟といった人々である。武則天の時代から増えすぎていた官職を減らし、贅沢を戒め、宮中の珠玉や錦を焼き捨てて倹約の手本を示した。地方の役人の質を上げ、戸籍から漏れて逃げた農民を調べ直して、税と兵の基盤を立て直した。この年号から、玄宗の前半の時代は「開元の治」と呼ばれる(開元の治)。唐の人口は増え、都の長安は世界でも有数の大都市として栄えた。日本からの遣唐使も、この時代の長安に学んだ。

開元の治に関わる図版:李隆基像
開元の治Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

玄宗の時代は、中国の詩の黄金期でもあった(唐詩の頂点)。宮廷に招かれた李白、仕官を求めてかなえられなかった杜甫、王維、孟浩然、王昌齢。唐の詩人として名の挙がる人々の多くが、この時代に生きた。玄宗自身も音楽に通じ、宮中に梨園と呼ばれる場所を設けて楽人や歌舞の者たちを自ら指導した。いまも芝居の世界を梨園と呼ぶのはこれに由来する。「霓裳羽衣の曲」は、玄宗が作ったとも、手を加えたとも伝えられる。

だが、在位が長くなるにつれて、玄宗は政治への関心を失っていった。734年から19年にわたって宰相を務めた李林甫は、自分の地位を脅かしそうな者を退け、皇帝の耳に入る話を選んだ。747年、玄宗が広く人材を求めて特別の試験を行ったとき、李林甫は受けた者を一人も合格させず、野に残された賢者はもういません、と皇帝に申し上げた。そのとき落とされた一人が杜甫である。737年には、寵愛する武恵妃の讒言を信じて、皇太子を含む3人の息子を廃し、死を命じた。

玄宗の夏の離宮(郭忠恕画の想像図、929-977年)
玄宗の夏の離宮(郭忠恕画の想像図、929-977年)Wikimedia Commons Guo Zhongshu · Public domain

武恵妃が亡くなったあと、玄宗の目にとまったのは、息子の寿王の妃だった楊玉環である。息子の妻を奪うことをはばかって、玄宗はまず彼女を道士にして宮中に入れ、745年に貴妃とした。楊貴妃である。玄宗は60歳、貴妃は20代半ばだった。楊貴妃の一族は高い位を与えられ、またいとこの楊国忠は、李林甫の死後に宰相となった。

その頃、唐の国境では、兵を募って養う節度使が大きな軍を持つようになっていた。751年には、中央アジアのタラス河畔で、唐の軍がアッバース朝の軍に敗れている(タラス河畔の戦い)。北東の辺境で三つの節度使を兼ねたのが、ソグド人と突厥の血を引く安禄山である。巨体の安禄山は、玄宗の前では胡旋舞を軽やかに踊ってみせ、楊貴妃の養子となって宮中に出入りした。玄宗は安禄山を信じ切っていた。楊国忠と安禄山は激しく対立した。

玄宗に献上された馬(12世紀、宋代の画)
玄宗に献上された馬(12世紀、宋代の画)Wikimedia Commons Meister des Tributpferdes · Public domain

755年11月、安禄山は楊国忠を討つと称して兵を挙げた(安史の乱)。反乱軍はたちまち洛陽を落とし、翌756年6月、長安の守りの要の潼関を破った。玄宗は夜明け前にひそかに長安を脱け出し、蜀(四川)をめざした。長安の西の馬嵬の駅で、従っていた兵士たちが動かなくなった。兵は楊国忠を殺し、さらに楊貴妃にも死を求めた。玄宗はついに認め、貴妃は仏堂で首をくくって死んだ。38歳だった。

皇太子の李亨は玄宗と別れて北へ向かい、霊武で勝手に帝位についた(粛宗)。成都でそれを知った玄宗は、退位を受け入れて上皇となった。757年、唐の軍がウイグルの援軍を得て長安を取り戻すと、玄宗も都に戻り、かつて暮らした興慶宮に住んだ。だが、粛宗の側近の宦官、李輔国は、上皇のもとに人が集まるのを警戒した。760年、李輔国は玄宗を宮城の奥の太極宮に移し、長年仕えた宦官の高力士を流罪にした。玄宗は側近から引き離され、寂しく晩年を過ごした。

玄宗代の宮廷の春の遊覧(張萱、8世紀原作の模本)
玄宗代の宮廷の春の遊覧(張萱、8世紀原作の模本)Wikimedia Commons Zhang Xuan · Public domain

762年、玄宗は満76歳で亡くなった。その十数日後、息子の粛宗も亡くなった。反乱が鎮まったのは翌763年で、唐はその後も150年近く続いたが、節度使が各地で自立し、かつての力は戻らなかった(唐の滅亡)。唐の最も輝かしい時代と、その転落の引き金は、同じ一人の皇帝の治世の中にあった。玄宗と楊貴妃の物語は、半世紀後に白居易が『長恨歌』(白居易「長恨歌」)に歌い、日本の『源氏物語』の冒頭にも影を落としている。

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