人物

高歓

Gao Huan
AD496年 – AD547年(享年51・推定)
東魏重要度 4

概要

懐朔鎮の貧しい鮮卑化した漢人。妻の持参金の馬で役人になった。六鎮の乱に加わり、爾朱栄の下で力をつけ、爾朱氏を滅ぼした。皇帝を立て、皇帝が逃げ、また立てた。鄴。晋陽。宇文泰と5度戦って勝てず、玉壁で負けて死んだ。息子が北斉を建てた。

関わったできごと(1)

東魏と西魏の分裂AD534年 · 東

本文

高歓は、496年、北魏の北の守りである懐朔鎮(いまの内モンゴルの包頭の近く)で生まれた。家は渤海の名門、高氏の流れを名乗る漢人だったが、祖父が罪を得て辺境に移され、鮮卑の兵士たちと暮らすうちに言葉も習わしも鮮卑のものになった。鮮卑風の名を賀六渾という。

高歓
高歓Wikimedia Commons Public domain

家は貧しく、若い高歓は城壁の見張りの兵だった。ある日、城壁の下を通った富豪の娘、婁昭君が彼を見初め、親の反対を押し切って嫁いだ。高歓は妻の持参金で馬を買い、それで手紙を運ぶ役につくことができた。辺境の兵にとって、馬がなければ出世の道はなかった。

使いとして都の洛陽に通っていた519年、高歓は、朝廷の高官張彝の屋敷が近衛の兵士たちに焼き打ちされ、張彝が殴り殺されるのを見た。朝廷は兵士たちを罰しきれなかった。高歓は「天下は乱れる」と見て、家財を売って豪傑たちと交わりを結んだと史書は書く。

高歓
高歓Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

その予感は当たった。523年、北辺の六つの軍鎮で兵士たちが反乱を起こした。孝文帝の漢化政策のあと、都の貴族に比べて冷遇されてきた辺境の兵の怒りが爆発したのである。高歓は反乱軍の杜洛周、次いで葛栄に加わったが、見切りをつけて、北秀容の契胡の首領、爾朱栄のもとへ移った。爾朱栄は528年、洛陽に入って皇族と百官二千人余りを黄河のほとりで殺し(河陰の変)、朝廷を握った。高歓はその配下で頭角を現した。

530年、爾朱栄が孝荘帝に殺されると、爾朱氏の一族が実権を争った。高歓は爾朱兆から六鎮出身の兵を預かると、彼らを率いて東の河北へ移り、531年、信都で爾朱氏に背いた。532年、韓陵の戦いで、はるかに多い爾朱氏の連合軍を破った。史書は高歓の兵を3万足らず、敵を20万と書く。洛陽に入った高歓は孝武帝を立て、自らは山西の晋陽に本拠を置いて、遠くから朝廷を動かした。

孝武帝は操られることを嫌い、534年、関中の宇文泰のもとへ逃げた。高歓は別の皇族を孝静帝に立て、都を洛陽から鄴へ移した。北魏はこうして東魏と西魏に割れた(東魏と西魏の分裂)。鄴へは洛陽の40万戸を移したと伝わる。

東魏は人口も富も西魏にまさっていた。しかし高歓は宇文泰に勝ちきれなかった。537年、潼関に向かった別動隊の竇泰が討たれ、同じ年の沙苑の戦いでは大軍で攻めながら、はるかに少ない宇文泰の軍に大敗した。543年の邙山の戦いでは勝ったが、とどめは刺せなかった。546年、汾水のほとりの玉壁城を大軍で囲み、50日あまり攻め続けたが、守将の韋孝寛に防ぎ抜かれた。7万の兵を失ったと史書は書く。

陣中で病に倒れた高歓は、敵に死んだと噂されると、諸将を集めた宴を開いた。勅勒の出身の老将、斛律金に北方の歌を歌わせ、自らも声を合わせて涙を流したという。「勅勒の川、陰山のふもと。天は丸い幕屋のように四方の野を覆う。天は青く野は果てしなく、風が吹いて草がなびけば牛や羊が見える」。この「勅勒歌」は、中国で最もよく知られた北方の歌の一つになった。

547年の正月、高歓は晋陽で死んだ。数えで52歳である。死の直後、河南を任されていた侯景が背き、のちに南朝の梁を大混乱に陥れる(侯景の乱)。後を継いだ長男の高澄は暗殺され、次男の高洋が550年、東魏の皇帝から位を譲らせて北斉を建てた。高歓には神武帝の号が贈られた。

高歓は漢人でありながら鮮卑の兵を率い、鮮卑語で命令した。『資治通鑑』によれば、彼は鮮卑の兵には「漢人はお前たちの奴隷だ。男は耕し、女は織ってお前たちを養っている。なぜ苛めるのか」と言い、漢人には「鮮卑はお前たちの雇い人だ。わずかな穀物と絹を受け取って、お前たちのために賊と戦っている。なぜ恨むのか」と言った。二つの民のあいだで均衡をとることが、彼の政治だった。

その子孫の北斉では、皇帝たちの殺し合いと乱行が続き、577年、西魏の流れをくむ北周に滅ぼされた。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD496年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →