東魏と西魏の分裂
概要
六鎮の乱のあと、鮮卑の兵を握った高歓が洛陽の孝武帝を追い、皇帝は関中の宇文泰の所へ逃げて毒殺された。高歓は鄴で東魏を、宇文泰は長安で西魏を立てた。150年の北魏が二つに。東は北斉、西は北周になり、北周が北斉を滅ぼし、隋がその北周を継いだ。
場所
34.62°N 112.45°E · 中国・河南省
関わった人(2)
高歓AD496年–AD547年 · 東宇文泰AD507年–AD556年 · 西本文
4世紀の末、鮮卑の拓跋氏が建てた北魏は、5世紀の前半に華北を統一した(北魏の華北統一)。北の草原には、遊牧の国である柔然がいた。北魏はその侵入を防ぐため、長城に沿って六つの軍事の拠点、沃野、懐朔、武川、撫冥、柔玄、懐荒の六鎮を置いた。そこに配されたのは、鮮卑の名門の子弟や、北方の諸部族の兵たちだった。都が北の平城にあったころ、六鎮の兵は国を守る誇り高い精鋭だった。
494年、孝文帝は都を南の洛陽に移し、鮮卑の服や言葉、姓を漢人風に改めさせた(孝文帝の洛陽遷都と漢化)。洛陽の鮮卑の貴族たちは、漢人の名門と婚姻を結び、文化の上で漢人と変わらなくなっていった。取り残されたのが、北の辺境の六鎮だった。出世の道は閉ざされ、扱いは流刑の地の兵のようになり、鮮卑の古い習わしを守る彼らは、洛陽からは田舎者と見下された。柔然の脅威が薄れたことも、彼らの値打ちを下げた。

523年、飢饉をきっかけに六鎮で反乱が起き、北の辺境は火の海になった。反乱を鎮める過程で、山西の契胡の族長、爾朱栄が大きな兵力を手にした。528年、宮廷で霊太后が幼い皇帝を立てて実権を握ると、爾朱栄は洛陽へ攻め上り、黄河のほとりの河陰で、霊太后と幼帝を黄河に沈め、出迎えた王族と高官を2000人ほど殺したとされる。北魏の朝廷は、この日に事実上崩れた。爾朱栄は自分が立てた孝荘帝に530年に殺され、その孝荘帝も爾朱氏の一族に殺された。
この混乱の中から、二人の男が現れた。一人は、懐朔鎮で育った高歓である。漢人の出身と称したが、鮮卑の中で育ち、鮮卑の言葉と習わしを身につけていた。爾朱栄の部下だった彼は、行き場を失った六鎮の兵を率いて爾朱氏に背き、532年に韓陵の戦いで爾朱氏を破った。高歓は新しい皇帝として孝武帝を立てたが、自分は北の晋陽に本拠を置き、洛陽の朝廷を遠くから操った。もう一人は、武川鎮の出身の宇文泰である。関中(いまの陝西)に送られた軍の将の一人で、上官が殺された後、その兵を引き継いで長安を押さえた。

534年、高歓の操り人形でいることに耐えられなくなった孝武帝は、わずかな兵を連れて洛陽を脱け出し、関中の宇文泰のもとへ逃げ込んだ。高歓は別の王族の少年を皇帝に立て、都を洛陽から東の鄴に移した。これが東魏である。宇文泰は逃げてきた孝武帝を迎えたが、皇帝が自分の言うことを聞かないと見ると、その年の暮れに毒殺し、別の王族を立てて長安を都とした。これが西魏である。どちらも「魏」を名乗り、どちらも自分こそが正統だと唱えた。北魏は、建国からおよそ150年で二つに割れた。
国力の差は大きかった。東魏は肥沃な華北の平野を持ち、人口も兵も多かった。西魏は貧しい関中に閉じこもり、兵も少なかった。高歓は何度も大軍で西へ攻め込んだ。537年の沙苑の戦いでは、宇文泰がわずかな兵で高歓の大軍を破ったとされ、勢いは拮抗した。546年、高歓は西魏の玉壁城を50日以上囲んだが落とせず、多くの兵を失って退き、翌年病で死んだ。その死の直後に、高歓の部将だった侯景が反乱を起こし、南へ走って梁を大混乱に陥れている(侯景の乱)。

弱い西魏を支えたのは、宇文泰が作った軍の仕組みだった。鮮卑の兵だけでは数が足りない。そこで彼は、関中の漢人の有力者とその配下の農民も兵として組み込み、将軍たちのもとに編成し直した。兵を出す家には税を軽くし、平時は田を耕し、戦時には戦う。これがのちに府兵制と呼ばれ、隋や唐の軍の土台になったとされる。宇文泰はまた、儒教の古典に描かれた周の制度にならって官制を整え、鮮卑と漢人を一つの支配層にまとめようとした。
550年、高歓の子の高洋が東魏の皇帝から位を譲らせて北斉を建て、557年には宇文泰の子が西魏に代わって北周を建てた(宇文泰自身は前年に死んでいた)。豊かな北斉は皇帝の乱行と内紛で衰え、577年、北周の武帝が北斉を滅ぼして華北を再び一つにした(この武帝は、仏教と道教を厳しく抑えたことでも知られる。北周の廃仏)。581年、北周の外戚の楊堅が位を奪って隋を建て、589年には南朝の陳も滅ぼして、およそ300年ぶりに中国を統一した(隋の中国再統一)。

隋の楊堅の家も、唐を建てた李淵の家も、宇文泰とともに関中に入った武川鎮ゆかりの軍人の家だった。宇文泰の重臣の独孤信は、娘の一人を北周の皇帝に、一人を李淵の父に、一人を楊堅に嫁がせている。のちの歴史家陳寅恪は、こうした関中の軍人と名門の結びつきを「関隴集団」と名づけ、隋と唐の支配層の源をここに見た。洛陽に見捨てられた北の辺境の兵たちが、二つに割れた国の西側で新しい支配層を作り、やがて中国全体を治めることになったのである(唐の成立)。