完顔阿骨打
概要
女真の部族長。遼の皇帝の宴で舞うことを拒み、2500の兵で挙兵して、10倍の遼軍を破った。1115年に皇帝を称し、女真文字を作らせ、遼の五京をすべて落として死んだ。
関わったできごと(2)
金の建国AD1115年 · 建国靖康の変AD1127年 · その弟が本文
1068年、松花江の支流・按出虎水(アルチュフ水)のほとりで、女真の完顔部の首長の家に生まれた。女真は森と川の民で、狩猟と漁労、農耕を営み、契丹人の国・遼(契丹)に従っていた。遼は女真に、鷹狩りに使う名鷹の海東青、北の川で採れる真珠、毛皮や人参を貢がせた。海東青を求める遼の使者は女真の村々に泊まり、女を差し出させるなど横暴を極めたと伝えられる。阿骨打は若い頃から弓と騎馬にすぐれ、兄の烏雅束の下で周辺の女真の諸部をまとめる戦いに加わった。

1112年、遼の天祚帝が松花江に出て、春の初めに最初に獲れた魚を祝う宴を開いた。周りの女真の首長たちは帝の命で次々に立って舞ったが、阿骨打だけは「舞えません」と言ってじっと立ち、何度促されても応じなかった。天祚帝は側近に「この者は気性が荒く、いずれ禍いになる。何か口実をつけて殺せ」と言ったが、側近が、礼を知らないだけの者を殺せば他の部族の心が離れると諫め、沙汰やみになったという。遼にとって、これが女真を抑える最後の機会になった。
翌年、兄の死で首長の座を継いだ阿骨打は、1114年秋、わずか2500の兵を集めて遼に兵を挙げた。遼の前線の拠点・寧江州を落とし、同じ年の冬、出河店で遼の大軍を破った。『金史』は遼軍を10万と記すが、数は誇張されているとみられる。それでも、女真の騎兵が遼の正規軍を正面から破ったことは周辺を驚かせ、遼に従っていた諸部族が次々と阿骨打のもとへ集まった。
1115年正月、阿骨打は皇帝を称し、国号を「大金」とした(金の建国)。『金史』は、その理由をこう伝える。「遼は鑌鉄(はがね)を国号とした。その堅さを取ったのだ。だが鉄は堅くとも、いずれは錆びて壊れる。ただ金だけは変わらず、壊れない」。故郷の按出虎水の「按出虎」が女真語で金を意味したことにちなむとも言われる。同じ年、天祚帝は自ら大軍を率いて親征したが、阿骨打は護歩答岡でこれを破った。
阿骨打は戦いながら国の形を作った。300戸を1謀克、10謀克を1猛安とし、平時は農耕と狩猟を営む戸を、そのまま戦時の部隊にする猛安・謀克の制度を整えた。女真には文字が無かったので、重臣の完顔希尹に命じて、漢字と契丹文字をもとにした女真文字を作らせ、1119年に公布した。遼の東京遼陽府を1116年に落として遼東を押さえ、渤海系の人びとも取り込んだ。
遼の衰えを見て、南の宋が動いた。宋は遼に奪われていた燕雲十六州を取り戻したいと願い、使者を海路で送って金と盟約を結んだ。1120年頃に結ばれたこの「海上の盟」で、両国は南北から遼を挟み撃ちにし、宋は燕京一帯を得る代わりに、これまで遼に払っていた歳幣を金に払うことになった。阿骨打は1120年に遼の上京臨潢府を、1122年に中京と西京を落とした。天祚帝は西の山中へ逃れた。
ところが宋軍は、遼の残存勢力が守る燕京を二度攻めて二度とも敗れた。1122年の暮れ、阿骨打は自ら兵を率いてこれを落とした。翌1123年、約束どおり燕京とその周辺の州を宋に引き渡したが、住民の多くと財貨は持ち去り、宋には空になった町が残された。宋の弱さを見抜いたこの経験が、のちの金の南下につながっていく。
1123年の夏、阿骨打は燕京から北へ帰る途上で病に倒れ、その年のうちに死んだ。数えで56歳だった。挙兵からわずか9年である。
後を継いだ弟の呉乞買(太宗)は、1125年に天祚帝を捕らえて遼を滅ぼし、盟約を守らない宋を攻めて、1127年には都の開封を落とし、上皇の徽宗と皇帝の欽宗を北へ連れ去った(靖康の変)。阿骨打の孫にあたる海陵王は、1153年に都を北の会寧から燕京へ移し、中都と名づけた。このとき海陵王は、会寧にあった阿骨打の陵を燕京の西南の房山に移している。燕京が中国の都となる歴史は、ここから始まる。

金の人びとは阿骨打を太祖と呼び、建国の英雄として祀った。宴で舞うことを拒んだ一人の首長が、10年足らずで二つの大国の運命を変えた。のちに女真の子孫が建てた清は、初め国号を「金」(後世の呼び名で後金)とし、金の再興を掲げている。