人物

秦檜

Qin Hui
AD1090年 – AD1155年(享年65・推定)
宋重要度 2

概要

金に連れ去られ、逃げ帰って宰相になった。和議を進め、岳飛を殺し、18年権力を握った。中国で最も憎まれた宰相で、その名を子に付ける親はいない。油条という揚げ菓子は、この夫婦を揚げたものだと言われる。

所属

宋

関わったできごと(1)

紹興の和議と岳飛の死AD1141年 · 宰相

本文

秦檜は1090年、江寧、いまの南京に生まれた。若くして科挙に合格し、北宋の都開封で官僚として仕えた。1127年、北方で興った金(金の建国)の軍が開封を落とし、徽宗と欽宗の二人の皇帝をはじめ、皇族や官僚を大勢北へ連れ去った(靖康の変)。このとき金は、宋の家臣だった張邦昌を新しい皇帝に立てようとした。秦檜は、宋の皇帝の家である趙氏を立てるべきだと反対する文書を出し、その気骨をたたえられた。そして彼自身も、皇帝たちとともに北へ連れ去られた。

靖康の変に関わる図版:ChinaHenanKaifeng
靖康の変Wikimedia Commons No machine-readable author provided. Plastictv~commonswiki assumed (based on copyright claims). · Public domain

北の地で、秦檜は金の有力な将軍のもとに身を置いた。1130年、彼は妻の王氏らとともに、南の宋の地に戻ってきた。金の軍に従って南へ来たとき、見張りを殺し、船を奪って逃げてきたのだと秦檜は語った。だが、敵の陣から家族ぐるみで無事に逃げてこられたことを怪しむ声は、当時からあった。秦檜は金と通じており、和議を進めさせるために金から送り込まれたのだ、という説は、宋の時代から語られている。確かな証拠はない。

南に逃れて宋を立て直した高宗は、秦檜の帰還を喜び、翌年には宰相の一人に取り立てた。秦檜は、北の人は北へ、南の人は南へ、と唱え、北から逃れてきた人々を北へ返し、金と境を分けて和を結ぶべきだと主張した。この考えは激しい反発を招き、彼はいったん職を追われた。だが、1138年にふたたび宰相に返り咲くと、それから亡くなるまでの18年近く、宋の政治を握り続けた。

秦檜
秦檜Wikimedia Commons Anonymous Unknown author · Public domain

その間に秦檜が進めたのが、金との和議だった。宋の側には、岳飛や韓世忠のように金の軍を打ち破り、北の失地を取り戻せると考える将軍たちがいた。とりわけ岳飛の軍は勢いに乗り、開封に迫るほどだった。だが秦檜は、戦いを続けることより、金と和を結んで南の宋を守ることを選んだ。高宗もまた、戦いが続いて将軍たちの力が強くなりすぎることや、北に捕らわれている兄の欽宗が戻ってくることを望まなかったともいわれる。

1141年、秦檜は前線の将軍たちを都に呼び戻して兵権を取り上げ、岳飛を謀反の罪で捕らえた(岳飛)。罪の証拠はなかった。韓世忠が、岳飛の罪の根拠を問いただすと、秦檜は、あったかもしれない、とだけ答えたと伝えられる。その言葉は、無実の罪を着せることを表す言葉として、のちのちまで語られた。翌年の初め、岳飛は獄中で殺された。同じ頃に結ばれた和議で(紹興の和議と岳飛の死)、宋は淮水を境に北を金に譲り、金に対して臣下の礼をとり、毎年多くの銀と絹を贈ることになった。

岳飛の首なき霊が秦檜の霊と対面する場面(地獄の第六殿)、19世紀の絵
岳飛の首なき霊が秦檜の霊と対面する場面(地獄の第六殿)、19世紀の絵Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

和議の後、秦檜の権力に逆らえる者はいなかった。和議に反対した者や、自分に従わない者は、次々に都から遠ざけられた。言論は厳しく取り締まられた。秦檜は自分の一族を高い地位につけ、孫を科挙の首席にしようとしたが、試験の結果を見た高宗が、別の受験者を首席にしたという話も伝わる。1155年、秦檜は病で亡くなった。その知らせを聞いた高宗は、これでもう靴の中に短刀を隠して歩かなくてすむ、と言ったと伝えられる。秦檜を用いた皇帝自身も、彼を恐れていたのである。

死後、秦檜は王に封じられ、立派な諡を贈られた。だが数十年後、金との戦いを望む勢力が力を持つと、その王位は取り上げられ、悪い意味の諡に改められた。一方、岳飛は名誉を回復され、忠義の英雄としてたたえられるようになった。秦檜の評価は、これで定まった。

杭州の西湖のほとりには、岳飛を祀る廟がある。その墓の前には、明の時代から、秦檜と妻の王氏らをかたどった像が、後ろ手に縛られて跪かされている。参拝する人々は長く、この像に唾を吐きかけ、打ちたたいた。像は何度も壊され、そのたびに作り直された。清の時代、秦という姓の科挙の首席合格者が岳飛の墓に詣で、宋より後、人は檜という名を恥じ、自分は墓の前で秦という姓を恥じる、という意味の句を詠んだという話も伝わる。小麦粉の生地を油で揚げた中国の朝食の揚げパン、油条は、もとは秦檜を油で揚げる、という意味の名だったという俗説まである。

秦檜は、中国の歴史の中で最も憎まれてきた人物の一人である。ただ、近代の歴史家の中には、当時の宋の力では北を取り戻すことは難しく、和議によって南宋が百数十年続く土台ができたと見る人もいる。岳飛を殺したことは許されないとしても、和議そのものの是非は、別に考えるべきだという議論である。英雄と悪人という物語の外で、秦檜の政治をどう評価するかは、いまも意見が分かれている。それでも、岳飛の墓の前の跪く像は、いまも立ち上がることを許されていない。

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