人物

康熙帝

Kangxi Emperor
AD1654年 – AD1722年(享年68・推定)
清重要度 4

概要

61年在位し、清の版図と繁栄を固めた。同じ頃ヨーロッパでは絶対王政が全盛を迎える。

所属

清

関わったできごと(2)

清の中国支配AD1644年 · のちに版図を固める康熙字典AD1716年 · 命じた

本文

康熙帝は1654年、北京の紫禁城で、清の順治帝の三男として生まれた。名を玄燁という。清は満洲族が建てた王朝で、その10年前の1644年に、李自成の反乱で滅んだ明に代わって北京に入ったばかりだった(清の中国支配)。中国の南部ではまだ明の遺臣が抵抗を続け、海の上では鄭成功の一族が台湾を拠点にしていた。

朝服姿の康熙帝の肖像画(清代)
朝服姿の康熙帝の肖像画(清代)Wikimedia Commons Anonymous Unknown author Qing Dynasty Court Painter · Public domain

玄燁は幼い頃に天然痘にかかり、顔にあばたを残して生き延びた。1661年、父の順治帝が天然痘で若くして死ぬと、数えで8歳の玄燁が後を継いだ。すでに天然痘を済ませて、もうかかる心配がないことが、跡継ぎに選ばれた理由の一つだったと伝えられる。幼い皇帝に代わって、4人の重臣が政治を執った。そのうちの一人オボイが次第に権力を独り占めし、反対する者を処刑するようになった。1669年、15歳の皇帝は、相撲の稽古と称して身の回りに集めた若者たちに命じて、参内してきたオボイを取り押さえさせたと伝えられる。こうして親政が始まった。

最初の大きな試練は、南の三人の藩王だった。清の中国征服に協力した漢人の将軍、呉三桂らは、雲南や広東、福建を領地として与えられ、半ば独立した王国のように振る舞っていた。康熙帝は藩の撤廃を決め、1673年、呉三桂らが反乱を起こした。三藩の乱である。反乱は長江以南の大半に広がり、一時は清の支配が揺らいだが、康熙帝は漢人の将兵を積極的に用いて8年をかけて鎮めた。1683年には、海軍を送って台湾の鄭氏を降伏させ、台湾をはじめて中国の王朝の版図に組み入れた(鄭成功の台湾)。

北では、シベリアを東へ進んできたロシアが、黒竜江(アムール川)の流域に砦を築いていた。康熙帝は砦を攻め落としたうえで交渉に入り、1689年、ネルチンスク条約を結んで国境を定めた。通訳にあたったのは北京にいたイエズス会の宣教師たちで、正文はラテン語で書かれた。清が外国と対等な形式で結んだ最初の条約とされる。中国の皇帝が他国を朝貢国としてではなく、対等の相手として条約を交わしたことは、それまでの中国の外交の考え方からすれば異例だった。

ネルチンスク条約に関わる図版:Латинскии Текст Нерчинского Договорa (авпр, Փ. 163, Оп. 1, Д. 22, Ал. 6 Об.) - 1
ネルチンスク条約Wikimedia Commons Unknown (goverments of China/Russia) · Public domain

西のモンゴル高原では、遊牧国家ジュンガルの君主ガルダンが勢力を広げ、清に従うモンゴルの諸部族を脅かしていた。康熙帝は自ら軍を率いて草原へ出陣し、1696年、ガルダンの軍を大破した。ガルダンは翌年に死ぬ。ジュンガルとの争いはその後も続き、最終的に滅ぼすのは孫の乾隆帝の時代になる(ジュンガルの滅亡)。

康熙帝は、学問に強い関心を持つ皇帝だった。漢籍を深く学んで儒学の素養で漢人の学者たちを感服させる一方、宮廷に仕えるイエズス会士から、幾何学、天文学、算術、医学を学んだ。ユークリッドの幾何学を満洲語に訳させて自ら学び、計算の道具を手元に置いた。宣教師たちに命じて全国を測量させ、経緯度をもとにした精密な地図を作らせている。マラリアにかかったとき、宣教師の献じたキナの皮で治ったという話も伝わる。学者たちを集めて辞書や百科事典の編纂も進めさせ、1716年に完成した康熙字典は4万7千字あまりを収め、のちの漢字の辞書の基準になった。

40歳の康熙帝
40歳の康熙帝Wikimedia Commons Author of Qing Dynasty · Public domain

統治では、民の負担を軽くすることを重んじた。1712年には、この年の人口を基準に人頭税の額を固定し、その後に増えた人口には税を課さないと定めた。治世の後半、清の人口は増え、経済は豊かになった。康熙帝は長江の南の豊かな地方へ6度の巡幸を行い、治水の工事を自ら見て回り、漢人の士大夫の心をつかもうとした。

一方で、満洲族の支配に逆らう思想には厳しかった。明の正統を認め、清を異民族の王朝として扱う記述を含んだ書物が見つかると、著者や関係者が一族ごと処罰された。1711年に始まった戴名世の『南山集』の事件では、著者が処刑され、多くの縁者が流罪となった。こうした思想の取り締まりは、次の雍正帝、乾隆帝の時代にいっそう激しくなる(清の文字の獄)。西洋の学問を宮廷に迎え入れることと、思想を統制することが、同じ治世の中に並んでいた。

狩りをする康熙帝
狩りをする康熙帝Wikimedia Commons Public domain

キリスト教については、宣教師たちの学識を重んじて布教を認めていた。しかし、中国人の信者が孔子や祖先を祭る儀礼を続けてよいかをめぐって、ローマ教皇が禁止の立場をとると、康熙帝は強く反発し、儀礼を認めない宣教師の滞在を許さなくなった。典礼問題と呼ばれる。

晩年は、跡継ぎの問題に苦しんだ。早くから皇太子に立てた次男を、素行と野心を理由に二度にわたって廃し、その後は太子を立てなかった。皇子たちの間で後継の座をめぐる争いが激しくなるなか、1722年、康熙帝は68歳で死んだ。四男が即位して雍正帝となったが、遺詔が書き換えられたという噂がささやかれた。在位は61年に及び、中国の歴代皇帝で最も長い。治世の前半は、ヨーロッパでフランスのルイ14世が72年に及ぶ治世を送った時代と重なっている。康熙、雍正、乾隆の三代にわたる清の最盛期は、この人の長い治世から始まった。

動画(1)

057 清の最盛期 世界史20話プロジェクト第07話Historia Mundi ムンディ先生高校の世界史を200講で通す講義の第57講「清の最盛期」
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1654年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →