劉裕の宋建国
概要
草鞋を売っていた北府兵の兵卒が、孫恩の乱と桓玄の簒奪を鎮め、南燕と後秦を滅ぼして長安を取り、東晋の恭帝に禅譲させた。禅譲した皇帝を殺した最初。「宋」。南朝の始まり。彼のあと170年、南の皇帝は貴族でなく軍人から出た。
場所
32.06°N 118.80°E · 中国・江蘇省
関わった人(1)
劉裕AD363年–AD422年 · 皇帝本文
4世紀の初め、晋の朝廷は北の遊牧の諸民族に華北を奪われ、江南の建康(いまの南京)に逃れて国を立て直した(東晋の成立)。東晋では、北から逃れてきた名門の貴族が朝廷の要職を握り、皇帝の力は弱かった。その国を守ったのが、長江の下流の京口に集められた北からの流民による軍、北府兵である。383年の淝水の戦いで、前秦の大軍を破ったのもこの軍だった。
劉裕は363年、その京口に生まれた。漢の皇族の遠い子孫を名乗ったが、家は貧しく、母は彼を産んですぐに亡くなり、父は育てられずに捨てようとしたと伝えられる。幼名を寄奴という。若いころは草鞋を売って暮らし、ばくちで借金を作って地元の有力者に縛られたこともあった。やがて北府兵に加わり、一兵卒から身を起こしていく。

399年、海沿いの地方で、道教の一派を率いる孫恩が反乱を起こし、海から建康の近くまで迫った。劉裕は、わずかな手勢で数千の敵を破るなどして名を上げる。403年には、長江の中流を押さえた軍閥の桓玄が皇帝を退けて自ら帝位に就いたが、翌404年、劉裕は京口で仲間とともに挙兵し、桓玄の軍を破った。桓玄は逃げる途中で殺され、劉裕は東晋の安帝を位に戻して、朝廷の実権を握った。
それからの劉裕は、東晋の歴史で最も目覚ましい軍事の成功を重ねた。409年から翌年にかけて、山東の南燕を滅ぼす。その留守を突いた反乱軍が建康に迫ると、急いで戻って撃退した。四川を押さえる勢力も降した。そして416年、北伐の軍を起こし、洛陽を奪い返して、翌417年には長安を落とし、羌族の国の後秦を滅ぼした。晋が都を追われてから約100年ぶりに、二つの古都が漢人の王朝の手に戻った。黄河を遡るとき、北岸から襲いかかる北魏の騎兵を、劉裕は車と弓弩を半月の形に並べた陣で退けたと伝えられる。かつての桓温の北伐も、長安の目前まで迫りながら果たせなかった成果だった。

だが劉裕は、長安にとどまらなかった。都の建康で腹心が死んだと聞くと、12歳の息子を長安に残して南へ帰る。残された軍は内輪で争い、長安は1年ほどで匈奴系の夏の赫連勃勃に奪われた。劉裕が長安を捨てて急いだのは、皇帝の位を手に入れるためだった、と史家は見ている。
劉裕は宋公、宋王と位を進めた。418年の暮れには安帝を殺させ、その弟を恭帝として立てる。そして420年6月、恭帝から位を譲られて皇帝となり、国号を宋とした。後の趙匡胤の宋(宋の成立)と区別して、劉宋とも呼ぶ。翌年、劉裕は廃した恭帝を殺させた。毒を飲むことを拒んだ恭帝は、布団をかぶせられて息を止められたという。かつて魏の曹丕も晋の司馬炎も、位を譲った皇帝を殺さなかった。劉裕からのち、南朝で位を譲った皇帝は、ほとんどが殺される。

劉裕は即位から2年後の422年に死んだ。数えで60歳だった。宋はその後、文帝の元嘉の治と呼ばれる30年の安定の時代を迎え、海の向こうの倭の王たちも、宋に使いを送って位を求めた(倭の五王)。だが宋の皇族は、やがて血みどろの殺し合いを繰り返し、479年、斉に取って代わられた。
宋、斉、梁、陳と続く南朝の四つの王朝は、いずれも軍人が建てた。名門の貴族は文化と朝廷の家柄を誇り続けたが、国の力の中心は、兵を握る者に移っていた。南朝は隋の中国再統一まで170年近く続く。劉裕は、その中で北伐で長安まで攻め上った唯一の皇帝である。南宋の詞人辛棄疾は、北に故郷を奪われた時代に京口の北固亭に登り、草ぶかい路地を見て、ここに寄奴が住んでいたと人が言う、と劉裕をしのぶ詞を書いた。