周公旦の摂政
概要
幼い王の代わりに政治を執り、反乱を鎮め、洛邑を築き、王位を返した。儒家が理想の政治家とした人で、孔子は夢に見なくなったことを嘆いた。
場所
34.62°N 112.45°E · 中国・河南省
関わった人(1)
周公旦?–BC1030年頃 · 摂政本文
紀元前11世紀、西の渭水の盆地から出た周は、殷(商)の大軍を牧野で破り、殷を倒した(牧野の戦い(殷周革命))。周の武王は、殷の旧都の一帯を、紂王の子の武庚に治めさせて殷の祭祀を続けさせた。その周りには自分の弟である管叔・蔡叔・霍叔を置いて見張らせた。三監と呼ばれる。だが、武王は殷を倒してから2年ほどで病に倒れ、死んだ。後を継いだ子の成王は、まだ幼かった。
武王の弟の周公旦、名は旦が、成王に代わって政治を執った。周の王家は新しく、東の広い土地にはまだ殷の旧勢力と、周に従わない諸族がひしめいていた。幼い王では、この国は持たないと見たのである。『書経』の「金縢」の篇には、武王が重い病にかかったとき、周公が自分の命を代わりに捧げると祖先の霊に祈り、その祈りの文を金の紐で封じた箱に納めた、という話が伝えられている。

周公の摂政に、兄弟たちは疑いを抱いた。管叔と蔡叔は、周公がいずれ王位を奪うつもりだという噂を流し、殷の武庚と結んで反乱を起こした。東方の奄(いまの山東省)などの諸族もこれに加わった。周公は、同じく王族の召公とともに東へ遠征し、3年かけて反乱を鎮めた。武庚と管叔は殺され、蔡叔は追放された。王朝を守るために、兄弟を手にかけたことになる。
反乱を鎮めたあと、周公は東を治める仕組みを作った。殷の遺民の多くを移し、黄河の中流、洛水のほとりに新しい都を築いた。洛邑、のちの洛陽である。西の本拠地からでは遠すぎる東の土地を押さえるための拠点だった。1963年に陝西省で見つかった青銅の器「何尊」には、成王がこの新しい都に移ったことが刻まれ、そこに「中国」の語が見える。文字として残る最も古い「中国」で、天下の真ん中という意味である。

周公はまた、王族と功臣を各地に封じた。殷の故地には武王の弟の康叔を置いて衛とし、殷の王族の微子を宋に封じて殷の祭祀を続けさせた。周公自身の長子は東方の魯に、功臣の太公望は斉に封じられた。土地と民を与えられた一族が、それぞれの地で周の王を支える。のちに封建と呼ばれる仕組みである。周公は儀礼と音楽を定め、身分に応じた礼を整えたとも伝えられる。殷が天の命を失い、徳のある周に命が移った、という「天命」の考え方も、周公らの言葉として『書経』に残っている。
摂政について7年目、成王が成人すると、周公は政治を王に返し、自らは臣下の位に戻った。権力を握り、軍功もありながら、王位に就かなかった。周公には、髪を洗っている間に客が来ると3度も髪を握って出迎え、食事中に客が来ると3度も口の中のものを吐き出して会いに行った、という逸話がある。人材を求めて、身を惜しまなかったという意味で語られる。

周公の生前と死後の細かい事績は、多くが後の時代の書物によるもので、どこまでが史実かは分からない。それでも、周公は儒家にとって理想の政治家になった。魯の国に生まれた孔子は、周公の定めた礼を復興することを志した。『論語』には、孔子が晩年、ひどく衰えたものだ、もう長いこと周公を夢に見なくなった、と嘆いた言葉が残る。若い頃は夢に見るほど、周公の世を思い続けていたということである。
周公の名は、後の時代に別の使われ方もした。周の官制を記した『周礼』は周公の作とされてきたが、いまでは戦国時代以降にまとめられたものと考えられている。前漢の末、外戚の王莽は、幼い皇帝を補佐する自分を周公になぞらえて権力を握り、やがて自ら帝位に就いた(王莽)。周公は、権力を返した人として理想とされると同時に、権力を握る口実にも使われたことになる。

周公が築いた洛邑は、のちに周が西の都を失ったとき、王朝の新しい都になった(周の東遷)。洛陽はその後も、後漢、魏、北魏など多くの王朝の都になる。