物語

『史記』で読む中国

出てくるできごと BC1046ごろ – BC138
できごと 5人物 3国 2

概要

2000年前に、一人の男が3000年ぶんを書いた。宮刑を受けてなお書き続け、以後の中国の歴史書の型になった。

この物語について

一人の人間が、3000年ぶんの歴史を書くことはできるのか。そして、なぜその一冊が、以後2000年の歴史の書き方を決めてしまったのか。

『史記』(司馬遷、BC91年頃)は、伝説の黄帝から著者と同時代の武帝までを扱う。130巻。著者自身の記すところでは、全体で52万字あまりになる。著者の司馬遷は、漢の朝廷で天文と暦と記録をつかさどる太史令の家に生まれた。生まれた年は紀元前145年とも前135年とも言われ、はっきりしない。

父の司馬談も太史令だった。父は、古い時代から続く歴史を一つの書にまとめる志を持っていたが、果たせないまま病に倒れた。死の床で父は、息子に自分の仕事を継ぐよう言い残したと、司馬遷は書いている。若いころの司馬遷は、中国の各地を旅し、古い戦場や聖人の故郷を訪ね、土地の古老から話を聞いた。その旅で見聞きしたことが、のちの書の中に生かされている。太史令として、彼は暦を改める事業にも加わり、紀元前104年に新しい暦が定められた。天体の運行を測り、時を正すことも、記録をつかさどる家の仕事だった。父の死から数年後、司馬遷は太史令を継ぎ、宮廷の書庫の記録を読める立場になった。

新しかったのは形式になる。年代順に並べるのではなく、五つの部に分けた。本紀(帝王)、表(年表)、書(制度や天文)、世家(諸侯)、列伝(個人)。この紀伝体という形が、以後2000年の中国の正史の型になった。各巻の終わりには、「太史公曰く」として、著者自身の評が添えられている。列伝は70巻あり、その最後の巻は、著者が自分の家系とこの書を書いた経緯を語る自序になっている。事実を記すだけでなく、自分の判断をはっきり書き分けたことも、この書の特徴である。王朝の歴史を、時間の流れと、制度と、人の生涯という複数の角度から立体的に描く。百年あまり後、後漢の班固は『漢書』で、この形を一つの王朝だけに絞って用いた。以後、王朝が替わるたびに、次の王朝が前の王朝の歴史をこの形で書くことが慣わしになる。

もう一つ新しかったのは、誰を書くかになる。王と将軍だけでなく、刺客、商人、医者、遊侠、道化までが列伝に入っている。秦王の暗殺に向かった荊軻の物語は、刺客列伝の中で最もよく知られた一篇である。富を築いた商人たちを扱う巻もあり、豊かになることを卑しまずに書いている。

勝った者だけでなく、負けた項羽に本紀を立てた。項羽は天下を取れずに滅んだが、秦を倒した戦いの主役として、帝王と同じ扱いを受けた。鴻門の会で劉邦を討ち損ね、最後は垓下で四方から楚の歌を聞く場面は、2000年後まで語り継がれる。勝者の劉邦の描き方は、それに比べて辛口でさえある。孔子も、諸侯ではないのに世家に入れられた。孔子の故郷を訪ねた司馬遷は、その廟に残された車や衣服や礼器を見て、去りがたくその場にたたずんだと書いている。司馬遷が、位ではなく後世への影響で人を量っていたことが分かる。秦に対して最初に反乱を起こした農民の陳勝も、世家に入れられた。陳勝・呉広の乱で、陳勝が仲間に向かって「王侯将相いずくんぞ種あらんや」、王も諸侯も将軍も宰相も生まれで決まるものではない、と言ったという場面は、反乱の始まりを告げる言葉として知られている。皇帝ではない呂后にも本紀が立てられた。実際に天下を動かした者を、名目ではなく実態で書いたのである。

『史記』が扱う時代は長い。伝説の帝王の時代から始まり、牧野の戦い(殷周革命)で殷が周に替わる場面を経て、春秋と戦国の争いを書く。秦が六国を滅ぼした秦の中国統一と、始皇帝の事業、儒家の書を焼いたとされる焚書坑儒。法家の思想家韓非が、秦王に認められながら同門の李斯に陥れられて死ぬ顛末も、列伝に書かれた。秦の崩壊と漢の成立の過程は、ほぼ同時代に近い記録として描かれている。

さらに『史記』は、著者自身が生きた武帝の時代も書いた。武帝が匈奴を討つために西方へ送った張騫の旅は、張騫の帰国からまだ日の浅いうちに記録された。西域の国々の地理と産物を伝える最も古い記録の一つである。漢の武帝は50年あまり帝位にあり、匈奴との戦争を繰り返し、その費用をまかなうために塩と鉄を国の専売にした。国は強く大きくなったが、民の負担も重くなった。司馬遷は、その時代のただ中で、その時代を書いた。同時代の権力者を書くことには危うさが伴う。司馬遷は、武帝の度重なる遠征や、不老不死を求める祭祀を、抑えた筆で書き留めた。

著者は、匈奴に降伏した将軍李陵を弁護して武帝の怒りを買い、宮刑を受けた。李陵は寡兵で匈奴の大軍と戦い、力尽きて降った。朝廷の誰もが李陵を責めるなかで、司馬遷だけが、その奮戦をたたえた。罪を金で贖うこともできず、男の身体を損なう刑を受けた。士人にとって、死よりも重い恥とされる刑だった。

死を選ばなかった理由を、友人への手紙にこう書いている。この書を完成させたい、と。その手紙には、人は誰でも一度は死ぬが、その死が泰山より重いこともあれば、鳥の羽毛より軽いこともある、という一節がある。恥を忍んで生き延びたのは、書き上げずに死ねば、その死が羽毛のように軽くなるからだった。

完成した書を、司馬遷は一部を名山に収め、副本を都に置くと書いている。当時の書物は竹の札に書かれ、紐で綴じられていた。52万字の書は、膨大な量の竹簡になったはずである。司馬遷の死後、この書を世に広めたのは、彼の外孫だったと伝えられる。伝わる過程で一部の巻は失われ、のちの学者が補った部分もある。

列伝の最初に置かれた伯夷と叔斉の巻で、司馬遷は、正しい人が飢えて死に、悪人が天寿を全うする世の中を見て、天の道は正しいのか、と問いかけている。自分自身の運命と重ねた問いとして、後世の読者はこの一節を読んできた。

『史記』に書かれたことのうち、どこまでが事実なのかは、長く議論されてきた。19世紀の終わりから殷の都の跡で見つかり始めた甲骨文字を、20世紀の初めに学者たちが読み解くと、そこに刻まれた王の名と順序が、『史記』の殷の系譜とほぼ一致することが分かった。伝説と思われていた王朝の記録に、確かな根拠があったのである。一方で、会話や場面の描写には、司馬遷の筆による脚色も含まれていると考えられている。

甲骨文字に関わる図版:Shang Inscribed Ox Scapula (for divination)
甲骨文字Wikimedia Commons CC0

『史記』は日本でも古くから読まれ、多くの故事成語のもとになった。中国では、唐や宋の時代の文章家たちが、その簡潔で力強い文体を散文の手本と仰いだ。歴史書であると同時に、文学の古典としても読まれてきたのである。作家の司馬遼太郎は、司馬遷に遼かに及ばない、という意味をこめてその筆名を選んだと言われる。

この物語は、『史記』が扱った時代の項目を並べたものになる。本文は写していない。

この年表の秦・漢の項目の多くは、この一冊に依っている。一人の人間の判断が、2000年後の年表の形をまだ決めている。

動画(1)

The Records of the Grand Historian (Shǐjì)Professor Greg宮刑を受けてなお書き上げた歴史書が、なぜ2000年読まれるのか

この物語が起きた場所

古シベリアの狩猟採集民前漢スキタイ匈奴テュルク系の諸部族月氏タイ系の人びとマレー系の人びとツングース系の人びとモン・クメール系の人びとシャンシュン王国Min-YueアイヌNan-Yue咸陽(2件) 秦の中国統一 焚書坑儒2長安(2件) 漢の成立 張騫の西域派遣2牧野(1件) 牧野の戦い(殷周革命)

できごと5件が起きた3か所。 同じ場所で何度も起きていれば、その数だけ大きくなります。国境はBC138の版図(この枠に大きく入る14勢力)。 物語は何百年にもまたがるので、最後のできごとの年で描いています。人物・国と、場所の分かっていないできごと5件は出ていません。押すと、この物語だけに絞った地図が開きます。

筋(10)

年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。

  1. 牧野の戦い(殷周革命)できごとBC1046年(年代に諸説あり)伝説と歴史の境目周が殷を破り、天命は徳ある者に移るという理屈が生まれた。以後の王朝交代はこの型で語られる。牧野(位置は特定されていない)
  2. 孔子人物BC551年 – BC479年世家に入れられた。諸侯でないのに礼と仁を説き、その言行が『論語』にまとめられた。東アジアの秩序観の土台になる。
  3. 韓非人物BC280年頃 – BC233年法・術・勢で君主が国を保つ道を説いた。始皇帝がその書に感嘆し、そして獄中で死なせた。
  4. 始皇帝人物BC259年 – BC210年本紀中国を初めて統一し、度量衡・文字・車軌を揃えた。長城と陵墓を築き、死後まもなく王朝は崩れる。
  5. 秦の中国統一できごとBC221年戦国の争いを制して中国が初めてひとつになった。度量衡・文字・車軌が揃えられる。咸陽
  6. 秦国BC221年(統一) – BC206年戦国を制して中国を初めて統一した王朝。度量衡と文字を統一し、長城を築いたが、始皇帝の死後わずか数年で崩れた。
  7. 焚書坑儒できごとBC213年(坑儒はBC212年)実用書以外の書を焼き、儒者を穴に埋めたと伝えられる。記述の実態には議論がある。咸陽
  8. 漢の成立できごとBC202年劉邦が項羽を破って皇帝に即いた。同じ頃、地中海ではローマがハンニバルを退けている。長安
  9. 前漢国BC202年 – AD9年秦の崩壊後に興り、西域まで版図を広げた。同じころ地中海ではローマが伸びており、絹の道が両者をつないだ。
  10. 張騫の西域派遣できごとBC138年同時代の記録として書かれた匈奴を挟撃する同盟を探して送られた使者が、中央アジアの情報を持ち帰った。絹の道の始まり。長安

重なっているストーリー

同じできごとや人物を含む物語です。何件を共有しているかを添えました。

中華の統一9件を共有 / 殷を倒した周から、初めて中国をひとつにした秦まで。800年かけて「天下」という考えが育つ。中国の王朝6件を共有 / 殷から清まで3000年。王朝は替わっても、同じ型で替わり続けた。『サピエンス全史』で読む歴史3件を共有 / ハラリが人類史を三つの革命で切った本。その筋に沿って、このデータベースの項目を並べ直す。『世界史』(マクニール)で読む歴史3件を共有 / 文明どうしが接触し、借り、競い合うことで歴史が動く。世界を一つの物語として書いた最初の教科書。草原の帝国2件を共有 / 匈奴からジュンガルまで、2500年のあいだ農耕世界の北にいた人たちの側から歴史を並べる。コテンラジオで聞く歴史2件を共有 / ポッドキャスト「コテンラジオ」が取り上げた人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。『銃・病原菌・鉄』で読む歴史2件を共有 / なぜ征服したのがスペイン人で、されたのがインカだったのか。ダイアモンドは答えを人ではなく大陸の形に求めた。中田敦彦のYouTube大学で学ぶ歴史2件を共有 / 「中田敦彦のYouTube大学」が講義した世界史・日本史・偉人伝の人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。探検と発見1件を共有 / 地平線の向こうに何があるかを、確かめに行った人たちの記録。交易路とお金1件を共有 / 運ぶ/両替する/貸す。人と物が動くところには、いつも同じ仕組みが生えてくる。『万物の黎明』で読む歴史1件を共有 / 狩猟採集から農耕へ、村から都市へ、そして国家へ。その一本道の筋書きそのものが間違いだ、という本。『負債論』で読む歴史1件を共有 / お金は物々交換の不便から生まれた、という話は史料に無い。先にあったのは借りのほうだ、という本。『反穀物の人類史』で読む歴史1件を共有 / 人が穀物を育てたのではなく、穀物と国家が人を囲い込んだ。最初の国家は、なぜ壁の内側に人を閉じ込めたのか。教育の歴史1件を共有 / 子どもが学校へ行くのが当たり前になったのは、ごく最近になる。誰が、誰に、何のために教えてきたか。交通と旅の歴史1件を共有 / 人が速く遠くへ動けるようになるたびに、世界は狭くなり、旅は一部の人の冒険から誰もの楽しみになった。ムンディ先生の講義で学ぶ歴史1件を共有 / 高校の先生「ムンディ先生」が、世界史と日本史を200講ずつで通した授業の動画。ここに並ぶ項目には、その講の動画が付いている。
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
この物語だけに絞って、地図と年表で追う国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →