隋の中国再統一
概要
南北朝の分裂が約300年ぶりに終わった。大運河を掘り、南北を物流でつなぐ。
場所
34.27°N 108.95°E · 中国・陝西省西安
本文
316年に西晋が滅んでから(晋による統一)、中国はおよそ270年にわたって南北に分かれていた。華北では五胡十六国の諸国が興亡を繰り返し、やがて鮮卑の北魏が統一した(北魏の華北統一)。北魏はのちに東西に割れ、北斉と北周に代わった。長江の南では、東晋の後、宋・斉・梁・陳の四つの王朝が、建康(いまの南京)を都に続いた。
北周の外戚で、娘を皇后に入れていた楊堅は、581年、幼い皇帝から位を譲られて隋を建てた。文帝である。北周は、その数年前に北斉を滅ぼして華北を一つにしていた。文帝は、南に残る陳を攻める準備を周到に進めた。長江に大きな軍船を浮かべ、たびたび兵を動かすふりをして陳の警戒を緩めさせたとも伝えられる。

588年の暮れ、文帝は次男の楊広(のちの煬帝)を総大将に、大軍で長江を渡らせた。翌589年、隋軍は建康に入った。陳の最後の皇帝・陳叔宝は、寵愛する妃たちとともに宮中の井戸に隠れていたところを見つけ出されたという。こうして中国は、西晋の滅亡以来、およそ270年ぶりに一つの王朝のもとに戻った。
文帝は、統一した国を治めるための仕組みを整えた。法典(開皇律令)を定め、農民に土地を割り当てて税と労役を課す均田制と、農民から兵を取る府兵制を、北朝から受け継いで全国に広げた。地方の役人の任命権を中央に集め、地方の有力者が自分の部下を勝手に役人にする慣わしを改めた。都は、長安の近くに新しく大興城を築いた。

官吏の選び方も変えた。それまでの中国では、地方の評判をもとに家柄の良い者が推薦されて官職に就く仕組みが長く続き、名門の貴族が高い官職を独占していた。文帝はこれを改め、試験によって人を選ぶ道を開いた。その仕組みは、のちに科挙として形を整えていく(科挙の始まり)。家柄ではなく学問で官吏を選ぶという考えは、その後1300年にわたって中国の政治の柱になった。
604年に即位した煬帝は、父以上に大きな事業に乗り出した。最も有名なのが、大運河である(大運河の完成)。黄河と淮河を結ぶ通済渠、長江の南へ延びる江南河、北の涿郡(いまの北京の近く)へ向かう永済渠を次々に掘り、華北と江南を水路で結んだ。工事には、数百万ともいわれる男女が駆り出された。南朝のもとで開発が進んだ江南の米や物資を、船で北へ運べるようになった。大運河はその後1000年以上にわたって中国の経済の背骨となり、いまも一部が使われている。

この時代、日本からは遣隋使が送られている。607年、小野妹子が携えた国書に、日出づる処の天子が日没する処の天子に書を送る、という言葉があり、煬帝が不快に思ったと『隋書』は伝えている。
しかし煬帝は、民の力を使いすぎた。運河や宮殿の工事に加えて、北東の高句麗を三度にわたって攻めた。612年の最初の遠征では100万を超える兵を動員したと伝えられるが、高句麗の将軍・乙支文徳に薩水で大敗し、生きて帰った者はわずかだったという(乙支文徳)。613年と614年の遠征も、目的を果たせずに終わった。度重なる動員と重い負担に、各地で農民の反乱が起き、遠征の最中には重臣の楊玄感までが反旗を翻した。

煬帝は、乱れる華北を離れて、運河で南の江都(いまの揚州)に移り、そこで日々を過ごした。618年、北へ帰りたいと願う近衛の兵たちが反乱を起こし、煬帝は殺された。同じ年、太原で兵を挙げていた李淵が長安で皇帝となり、唐を建てた(唐の成立)。隋は、建国からわずか37年で倒れた。
隋の歩みは、秦とよく似ている。長い分裂の後に天下を一つにし、国の土台となる仕組みを一気に作り上げたが、民を急いで使いすぎて、短い間に倒れた。そして、その仕組みを受け継いだ次の王朝が、長く栄えた。唐の律令、均田制、科挙、そして大運河は、いずれも隋が作ったものの上に立っている。煬帝は後世、暴君の代名詞とされたが、彼の掘った運河の恩恵を最も受けたのは、彼を倒した唐だった。