王莽
概要
外戚から帝位を奪い、周の古制に戻そうとした。改革は行き詰まり、15年で倒れる。
関わったできごと(1)
王莽が新を建てるAD9年 · 当人本文
紀元前45年に生まれた。叔母の王政君が前漢の元帝の皇后で、のちに皇太后として長く宮廷に君臨したため、王氏の一族は外戚として大きな力を持っていた。伯父や叔父が次々に大将軍となり、従兄弟たちは贅沢な暮らしを競った。だが王莽の父は早くに亡くなり、侯の位を受け継ぐこともなかった。一族の中では日の当たらない家の子だった。

王莽はそこで、別の道を選んだ。儒学を熱心に学び、質素な身なりで、母や兄嫁によく仕えた。伯父で大将軍の王鳳が病に倒れると、何か月も帯を解かずに付き添って看病したと『漢書』は記す。王鳳は死に際に、この甥を皇太后に推した。王莽は昇進を重ね、紀元前8年、38歳で大司馬という最高の官職に就いた。
その振る舞いは、極端に謙虚だった。受けた褒美は人に分け、客をもてなしても自分は粗末な食事で済ませた。夫人は質素な服を着ていたため、訪ねてきた客が召使いと間違えたという話が残る。次の哀帝の時代には、新しい外戚に押されて領地に退いたが、その間に次男が奴婢を殺すと、王莽は息子を厳しく責めて自殺させた。人々はこれを、私情よりも道理を重んじる態度として称えた。退いている王莽の復帰を求める上書が、朝廷に数百通も届いたという。
紀元前1年に哀帝が亡くなると、王莽は大司馬に返り咲き、9歳の平帝を立てた。自分の娘を平帝の皇后に入れ、「安漢公」(漢を安んじる人)の称号を受ける。手本にしたのは、幼い成王を助けて周の礎を築いたと儒学が称える周公旦だった。長男が王莽のやり方に反対して陰謀を企てると、これも死なせている。紀元5年に平帝が若くして亡くなると(王莽が毒殺したという説が後に語られた)、2歳の幼児を後継に立て、自らは「仮皇帝」として政治を執った。
この頃から、天が王莽を帝位に就けよと命じている、という「しるし」が各地から報告されるようになる。井戸の中から、王莽を皇帝にせよと書かれた白い石が見つかった、といった類いのものである。紀元8年の末、王莽はついに帝位に就き、国号を新とした(王莽が新を建てる)。武力で奪うのではなく、徳のある者に位を譲る「禅譲」の形をとった。儒学の理想どおりの手続きで王朝が交代した、史実としては最初の例とされる。
即位した王莽は、儒教の経典に描かれた周の時代の制度を、そのまま現実に移そうとした。全国の土地を「王田」として国のものとし、売買を禁じた。一家の男が8人に満たないのに一定の広さを超える土地を持つ者は、余りを親族や村人に分けよ、と命じた。奴婢の売買も禁じた。大土地所有が広がり、土地を失った農民が奴婢に落ちていく前漢末の社会の問題に、正面から手をつけたものではあった。
だが実行の仕方が拙かった。豪族の反発を受けて、土地と奴婢の法は数年で取り消された。貨幣は何度も作り替えられ、金・銀・亀の甲・貝・銅など素材も形もさまざまな28種類もの貨幣が定められた。人々は新しい貨幣を信用せず、こっそり古い漢の五銖銭を使い続け、それを罰したために多くの人が罪に問われた。官職の名や地名も経典に合わせて次々に変えられ、役人ですら覚えきれなかった。周囲の国々の王を「侯」に格下げし、匈奴の単于の称号を侮った名に変えたため、北方との関係も悪化した。
そこへ天災が重なった。紀元11年頃、黄河の堤防が決壊し、流れが大きく北から東へ移った。広い地域が水に沈み、飢えた農民が流民になった。紀元18年頃から、山東では眉を赤く塗った農民の軍「赤眉」が立ち上がり、南では「緑林」の軍が起こった(赤眉と緑林の乱)。漢の皇族の血を引く劉氏の人々も兵を挙げた。
紀元23年、新の大軍が昆陽の戦いで劉秀らに大敗する。反乱軍は長安に迫り、城内でも反乱が起きた。王莽は宮殿の池の中の高台に逃れ、そこで殺された。首は切り取られ、反乱軍の拠点に送られてさらされたという。数えで68歳だった。新は、ただ一代、15年で終わった。2年後、劉秀が漢を再興して光武帝となる(光武帝、後漢の成立)。
後漢の時代に書かれた『漢書』は、王莽を、偽りの謙虚さで人を欺き、漢の位を盗んだ人物として描いた。以後の中国の歴史書でも、王莽は簒奪者の代表になる。20世紀に入ると、土地の国有化を試みた先駆的な改革者として見直す人も現れた。
理想は筋が通っていた。だが、千年前の制度を細部まで再現しようとし、現実に合わなければ次々と作り替えた。改革が人々の暮らしを混乱させ、その混乱が天災と重なって王朝を倒した。理想を掲げた改革がなぜ失敗するのかを考えるとき、いまも引かれる人物である。