李元昊
概要
タングートの首長が、宋の姓を捨て、文字を作らせ、皇帝を称した。宋と三度戦って勝ち、和議で銀と絹を取る。息子の妻を奪い、その息子に鼻を削がれて死んだ。
所属
西夏関わったできごと(1)
西夏文字の制定AD1036年 · 命じた本文
タングートの首領の家に生まれた。タングートはチベット系の人々で、唐の時代に青海から黄河の大きな湾曲部(オルドス)の周辺へ移ってきた。9世紀の末、首領の拓跋思恭が黄巣の乱の鎮圧に功を立て、唐から李の姓と、夏州を治める節度使の地位を与えられた。以後、一族は名目上は中国の王朝に仕えながら、オルドスで半ば独立した勢力を保った。
宋が建つと、関係は揺れた。祖父の李継遷は宋に背いて霊州を奪い、遼(遼(契丹))とも結んだ。父の李徳明は一転して宋に従い、趙の姓を受けて平和を保ちながら、西の河西回廊へ勢力を伸ばした。宋との交易で得る絹と茶が、国を支えていた。
息子の元昊は、その父のやり方に不満だった。毛皮を着て家畜を飼うのが我らの性に合う、英雄として生まれたからには王となるべきで、錦の衣など何になろう、と父に言ったと『宋史』は書く。若いころから兵を率い、1028年には河西の甘州のウイグルを攻め落とした。仏教にも法律にも通じ、漢語とチベット語の書物を読んだという。
1032年、父の死で跡を継いだ。最初にしたのは、宋からもらった姓を捨てることだった。趙の姓をやめ、タングート自身の言葉で嵬名と名乗った。翌年には禿髪令を出し、頭頂を剃る独自の髪型を全ての男に命じた。3日のうちに従わない者は殺してよい、とされた。1036年頃には臣下の野利仁栄らに命じて独自の文字を作らせ(西夏文字の制定)、『孝経』などの漢籍もこの文字に訳させた。瓜州・沙州(敦煌)も手に入れ、河西回廊の全体を押さえた。
1038年、皇帝を称して国号を大夏とし、宋に対等の書簡を送った。中国の史書はこの国を西夏と呼ぶ(西夏)。都の興慶府は、いまの寧夏回族自治区の銀川にあたる。宋にとって、臣下の家が皇帝を名乗るのは許せないことだった。宋は官爵を取り上げ、国境の交易を止めた。
戦いが始まった。宋は三度大軍を送り、三度負けた。1040年の三川口、1041年の好水川、1042年の定川寨。元昊は偽りの退却や伏兵で宋の大軍を山あいに誘い込み、そのたびに数千から一万を超える兵を討ち取った。好水川では、宋の兵が谷間で見つけた箱を開けると、中から鳩が飛び立ち、それを合図に西夏の兵が襲いかかったと伝えられる。宋の側で国境の守りを立て直したのは、范仲淹や韓琦だった。
勝ち続けても、西夏の暮らしは苦しくなった。宋との交易が止まり、戦争は国を疲れさせた。1044年、両国は和議を結ぶ。元昊は宋の皇帝の臣下として「夏国主」の称号を受け入れ、宋は毎年、銀7万両あまり、絹15万匹あまり、茶3万斤を贈ることになった。名目は皇帝からの「賜与」で、実質は買った平和だった。同じ年、元昊は攻めてきた遼の軍も河曲で打ち破っている。宋と遼という二つの大国の間で、西夏は自分の場所を勝ち取った。
晩年は暴君として書かれる。功臣の野利氏の兄弟を疑って殺し、その一族の皇后を退けた。息子の寧令哥の妃に迎えるはずだった没移氏の娘が美しいと聞いて、自分の妃にした。1048年の正月、寧令哥は、元昊の寵愛する没蔵氏の兄・没蔵訛龐にそそのかされて宮中に入り、父に斬りつけて鼻を削いだ。元昊は翌日死んだ。数えで46歳だった。寧令哥はすぐに没蔵訛龐に捕らえられて殺され、没蔵氏の産んだ生まれて間もない子が帝位に就いた。
西夏は、1227年にモンゴルに滅ぼされるまで190年近く続いた。チンギス・カンはその遠征の途中で死んでいる。滅亡のとき徹底的に破壊されたため、西夏の記録はほとんど失われ、元の時代に作られた正史も、宋と遼と金のものだけで西夏史は書かれなかった。20世紀の初め、黒水城の遺跡から大量の西夏文字の文書が見つかり、元昊の作らせた文字はようやく読まれ始めた。中国の王朝に名をもらう家から、自分の名と文字と国を作った人物として、元昊はいまも研究者を引きつけている。