できごと

乾隆帝の治世

Reign of the Qianlong Emperor
1735年 – 1796年
期間を持つできごと重要度 4
ロシア帝国清スペイン帝国ムガル帝国中央アジアの諸ハン国カザフ・ハン国チベットアユタヤ朝Avaシャン諸邦日本大越大越朝鮮王朝ラオスの諸国フィリピンLan NaアイヌモシリMarathaアラカン藩王国1735年北京
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っている1735年の版図を描いています(20勢力)。

概要

清の版図が最大になった。祖父の在位年数を超えないよう60年で退位する。この先に西洋との摩擦が待っている。

場所

北京
39.90°N 116.41°E · 中国

関わった人(1)

乾隆帝AD1711年9月25日–AD1799年2月7日 · 当人

本文

1735年、清の雍正帝が急死し、その四男で24歳の弘暦が帝位を継いだ。翌年から乾隆と年号を改める。乾隆帝である。祖父の康熙帝に幼いころから目をかけられ、宮中で学問と武芸を仕込まれた若者だった。父の雍正帝は、厳しい監察と財政の立て直しで官僚を締めつけた皇帝で、乾隆帝はその後を受けて、満ちた国庫と整った統治の仕組みを手にした。清が中国に入って(清の中国支配)から、ほぼ1世紀がたっていた。

乾隆帝の時代、清は戦場で版図を広げた。最大の敵は、天山山脈の北の草原を本拠とする遊牧の国ジュンガルだった。ジュンガルは祖父の代から清と争い、モンゴルとチベットをめぐって何度も戦っていた。1750年代、ジュンガルの内紛につけこんで清は大軍を送り、1755年から1759年にかけて、ジュンガルの滅亡をもたらした。戦いと虐殺、そして天然痘の流行で、ジュンガルの人々の多くが命を落とし、その国は地上から消えた。続いて天山の南のオアシスの町々も平定され、この広大な土地は「新しい領土」を意味する新疆と呼ばれるようになった。

朝服姿の乾隆帝の肖像画
朝服姿の乾隆帝の肖像画Wikimedia Commons Giuseppe Castiglione · Public domain

こうして清の版図は、満洲、モンゴル、チベット、新疆、台湾、そして中国本土を合わせた、中国の歴史で最も広いものになった。乾隆帝は晩年、自らの十度の遠征を「十全武功」と称し、自分を「十全老人」と呼んだ。ただしその中には、多くの兵と費用を失いながら勝ち切れなかったビルマやベトナムへの遠征も含まれている。いまの中国の国境の多くは、この時期に清が手にした版図を土台にしている。

国の内側では、長い平和のもとで人口が急増した。アメリカ大陸から伝わったトウモロコシやサツマイモが、それまで耕せなかった山地でも育ち、人々は山へ、辺境へと移り住んだ。18世紀の初めに1億数千万だった人口は、世紀の終わりには3億前後に達したと推定されている。南の広州では、欧米の商人との茶の取り引き(広州の茶貿易)が栄え、銀が中国へ流れ込んだ。ただし清は1757年、ヨーロッパの商人との交易を広州一港に限っている。

皇子時代の弘暦(北京故宮博物院蔵)
皇子時代の弘暦(北京故宮博物院蔵)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

乾隆帝自身は、学問と芸術を好む皇帝だった。生涯に4万首を超える詩を作ったとされ、宮中の膨大な書画を集めては、名品の余白に自ら感想を書き込み、印を押した。イタリア人のイエズス会士カスティリオーネを宮廷画家として重用し、北京の郊外の離宮、円明園には西洋風の宮殿と噴水まで造らせている。

最大の文化事業が、『四庫全書』の編纂である。1773年から10年ほどをかけて、全国から古今の書物を集め、学者たちに選ばせ、選ばれた3000数百種を写させて、およそ3万6千冊の叢書にまとめた。完成した本は7部作られ、宮中や各地の書庫に納められた。

即位直後の乾隆帝(ジュゼッペ・カスティリオーネ画、1736年)
即位直後の乾隆帝(ジュゼッペ・カスティリオーネ画、1736年)Wikimedia Commons Giuseppe Castiglione · Public domain

だが、書物を集める作業は、同時に書物を調べ上げる作業でもあった。満洲人を夷狄と呼ぶ言葉や、明への忠誠を思わせる記述を含む本は、書き換えられ、あるいは禁書とされて焼かれた。焼かれたり禁じられたりした本は数千種にのぼるとされる。文章の一字一句から清への反逆の意図を読み取って罪に問う「文字の獄」は、乾隆帝の時代に最も多く起き、作者が死んだ後に墓を暴かれた例もある。集めることと消すことが、一つの事業の中で行われた。

治世の後半、皇帝の目は曇っていった。年若い寵臣の和珅が、皇帝の信頼を背に要職を兼ね、賄賂を集めて巨万の富を築いた。官僚の腐敗は地方にまで広がり、軍の遠征と皇帝の巡幸は財政を圧迫した。

1793年、イギリスのマカートニーが率いる使節団が、皇帝の誕生日を祝うという名目で、熱河の離宮を訪れた(マカートニー使節団)。イギリスは交易の港を増やし、北京に使節を常駐させることを求めたが、乾隆帝はイギリス国王にあてた勅書で、天朝は物が豊かで、無いものは無い、外国の品に頼る必要はないと述べて、すべてを退けた。中国を世界の中心とする考え方と、対等な国どうしの通商を求める考え方が、ここで正面からすれ違った。

マカートニー使節団に関わる図版:LordMacartneyEmbassyToChina1793
マカートニー使節団Wikimedia Commons William Alexander · Public domain

1796年の初め、乾隆帝は在位60年を区切りに、帝位を息子の嘉慶帝に譲った。祖父の康熙帝の在位61年を超えるのは畏れ多いというのが理由である。もっとも乾隆帝は太上皇帝として実権を握り続け、和珅もその傍らにいた。譲位の年には、四川や湖北で白蓮教徒の乱が起き、鎮圧には10年近くかかることになる。1799年に乾隆帝が亡くなると、嘉慶帝はただちに和珅に自害を命じ、その財産を没収した。

乾隆帝の60年は、清の絶頂であり、同時に下り坂の始まりでもあった。広州の交易をめぐるイギリスとの摩擦は、やがて40年あまり後のアヘン戦争へとつながっていく。

出典(2)

ケネス・ポメランツ(川北稔 監訳) 『大分岐 中国、ヨーロッパ、そして近代世界経済の形成』第1章(ヨーロッパの先進性という神話)
アンドレ・グンダー・フランク(山下範久 訳) 『リオリエント アジア時代のグローバル・エコノミー』第4章(18世紀まで中国が世界経済の中心)

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