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Event / できごと

鄧小平の南巡講話

Deng Xiaoping's Southern Tour
AD1992年1月18日
重要度 5

概要

天安門の3年後、改革が止まっていた。88歳の鄧小平が、肩書きなしで、深圳、珠海、上海を回って、「改革開放を続けろ。計画か市場かは社会主義か資本主義かの区別ではない。発展こそ硬い道理」。北京の保守派は無視しようとして、党大会で「社会主義市場経済」が決まった。中国の30年の成長は、ここから。

場所

深圳
22.54°N 114.06°E · 中国・広東省

関わった人(1)

ケ小平AD1904年8月22日–AD1997年2月19日 · 回った

本文

1989年6月4日。天安門。改革を進めた趙紫陽が失脚し、江沢民が総書記になった。西側の制裁。1989〜91年、経済は減速し、保守派(陳雲、李鵬、鄧力群)が「平和的演変(西側が中国を静かに資本主義に変える)」を警戒して、改革を止めた。「経済特区は資本主義の温床」。1991年、ソ連が消えた。

鄧小平は87歳、1989年11月に中央軍事委員会主席を辞めて、肩書きは中国橋牌協会名誉主席だけ。

1992年1月17日、北京を出た。1月18日、武漢(駅のホームで、湖北省の幹部に「形式主義をやめろ」)。1月19日〜23日、深圳。1月23日〜29日、珠海。1月31日〜2月20日、上海。娘の鄧榕が付き添い、記録した。

深圳。1980年に自分が作った特区。12年で、漁村が人口100万の街に。国貿ビルの回転レストラン、53階。「深圳の発展は、特区が正しかったことを証明した。改革開放を100年、堅持しろ。計画が多いか市場が多いかは、社会主義と資本主義の本質的な区別ではない。資本主義にも計画があり、社会主義にも市場がある。判断の基準は三つ。社会主義の生産力の発展に有利か、総合国力の増強に有利か、人民の生活水準の向上に有利か。発展こそ硬い道理。改革しない者は下野せよ。左を警戒せよ。右も警戒するが、主に左を」。「歩みが速すぎるのを恐れるな。大胆に試せ、大胆に突き進め」。

北京の党の新聞は、書かなかった。深圳の『深圳特区報』が3月26日、「東方風来満眼春」を載せた(記者陳錫添)。香港の新聞が伝え、全国が知った。3月、政治局が「講話」を全党に伝えることを決めた。10月、第14回党大会。「社会主義市場経済体制の確立」。江沢民が乗った。李鵬も。朱鎔基が経済を。

1992年、成長率14%。1993年、13%。外資が来た。国有企業の改革(1990年代後半、レイオフ数千万)。2001年、WTO。2010年、日本を抜いてGDP世界2位。

「南巡講話」。清の皇帝が南を巡ったのと同じ言葉。肩書きのない老人が、党の路線を決めた。中国の政治は、そういう国だと、これで分かった。

鄧小平は5年後、1997年2月19日に死んだ。香港返還の4か月前。

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