鄧小平の南巡講話

概要
天安門の3年後、改革が止まっていた。87歳の鄧小平が、肩書きなしで、深圳、珠海、上海を回って、「改革開放を続けろ。計画か市場かは社会主義か資本主義かの区別ではない。発展こそ硬い道理」。北京の保守派は無視しようとして、党大会で「社会主義市場経済」が決まった。中国の30年の成長は、ここから。
場所
22.54°N 114.06°E · 中国・広東省
関わった人(1)
鄧小平AD1904年8月22日–AD1997年2月19日 · 回った本文
1978年の末から、中国は鄧小平の指導のもとで改革開放に踏み出していた(中国の改革開放)。農村では人民公社が解体され、農家が自分で作物を作って売れるようになった。南の沿海には深圳などの経済特区が置かれ、外国の資本と技術を呼び込んだ。だが改革は一本道ではなかった。物価が上がり、役人の汚職が広がり、1980年代の終わりには不満が膨らんでいた。
1989年6月4日、北京の天安門広場に集まった学生と市民を、軍が武力で排除した(天安門事件)。学生に同情的だった総書記の趙紫陽は失脚し、上海の党書記だった江沢民が後を継いだ。西側の国々は中国に制裁を科した。党内では、計画経済を重んじる陳雲や首相の李鵬らの発言力が強まった。彼らは、改革と開放が西側の思想を国に入れ、共産党の支配を内側から崩すと警戒した。経済特区は資本主義の温床ではないかという議論が、党の新聞に載るようになった。改革の速度は落ち、経済成長も鈍った。

1989年の秋から1991年の末にかけて、東ヨーロッパの社会主義国が次々に倒れ、ついにソ連そのものが消えた(ソ連の解体)。中国の指導者たちにとって、それは二通りに読める出来事だった。改革を進めすぎたから党が倒れたのか。それとも、人々の暮らしを豊かにできなかったから倒れたのか。保守派は前者を、鄧小平は後者を見ていた。
鄧小平は1989年11月、最後に残っていた党の中央軍事委員会主席の職を辞めていた。公式の肩書きとして残ったのは、中国ブリッジ協会の名誉主席くらいだったといわれる。それでも彼が、党の元老として最終的な決定を左右できる人物であることに変わりはなかった。1992年1月、87歳の鄧小平は家族とともに特別列車で北京を出て、南へ向かった。表向きは休暇の旅行だった。

1月18日、列車が武漢の駅に止まると、鄧小平はホームで出迎えた湖北省の幹部たちに、会議ばかり開いて形式に流れるのはやめろと語った。19日、深圳に着いた。深圳は1980年に彼が作らせた経済特区で、香港と境を接する漁村だった土地が、12年で高層ビルの並ぶ大きな町になっていた。鄧小平は町を見て回り、高層ビルの最上階にある回転展望台からその景色を眺めた。
旅のあいだ、鄧小平は行く先々で語り続けた。改革開放の路線は百年変えてはならない。計画が多いか市場が多いかは、社会主義と資本主義の本質的な違いではない。資本主義にも計画はあり、社会主義にも市場はある。ある政策がよいかどうかは、生産力を伸ばすか、国の総合的な力を強めるか、人々の生活を豊かにするか、この三つで判断せよ。発展こそが揺るがない道理である。改革をしない者は、誰であれ退け。右にも警戒しなければならないが、主に警戒すべきは左である。ここで言う左とは、改革を止めようとする保守派のことだった。大胆に試し、大胆に進め、纏足をした女のようにおずおず歩くな、とも言った。

深圳のあと、鄧小平は船で珠海へ渡り、広州を経て、上海で2月の大半を過ごした。上海では、1990年に開発が決まったばかりの浦東地区を見た。旅の記録は付き添った娘の鄧榕らが残し、講話の内容は「南巡講話」としてまとめられた。南巡とは、もとは清の皇帝が江南を巡って視察したことを指す言葉である。
北京の党の新聞は、初めのうちこの旅をほとんど伝えなかった。最初に詳しく報じたのは香港の新聞で、3月26日には深圳の地元紙『深圳特区報』が長い記事を載せた。記事は全国の新聞に転載され、人々は鄧小平が何を語ったかを知った。党中央も2月の末には講話の要点を文書にまとめて幹部に伝え、江沢民らの指導部は改革を加速させる方向にかじを切った。鄧小平の言葉に逆らい続ければ、自分たちが「改革しない者」として退けられかねなかったからである。
1992年10月の第14回党大会は、中国が目指すのは「社会主義市場経済」だと決めた。社会主義の看板を掲げたまま、市場で経済を動かすという意味である。1992年の経済成長率は14%を超え、外国からの投資が沿海の各地へ流れ込んだ。不動産と株の熱狂が起き、物価も大きく上がったが、成長の流れは止まらなかった。1990年代の後半には、朱鎔基首相のもとで赤字の国有企業が大胆に整理され、数千万人の労働者が職を失った。2001年、中国は世界貿易機関に加わり(世界貿易機関)、「世界の工場」と呼ばれるようになる。2010年には国内総生産で日本を抜き、世界2位の経済大国になった。
南巡講話は、経済の向きを決めると同時に、政治の形も示していた。天安門の弾圧は改めず、共産党の一党支配は守る。そのうえで経済は市場に任せ、豊かさで党の正当性を支える。この組み合わせが、その後30年の中国の基本の形になった。そして、どんな公職にも就いていない一人の老人の旅が、国の進む方向を決めたこと自体が、中国の政治のあり方をよく物語っている。
鄧小平は1997年2月19日に92歳で亡くなった。自ら交渉した香港返還の4か月あまり前で、香港が中国に戻る日を見ることはできなかった。深圳には、南巡を記念する巨大な鄧小平の肖像の看板が立てられ、いまも町の名所になっている。