広州の茶貿易
概要
イギリスが飲む茶の代金として、銀が中国へ流れ続けた。その流れを逆にするために持ち込まれたのがアヘンになる。飲み物の習慣が、戦争の理由になった。
場所
23.13°N 113.26°E · 中国・広東省
本文
17世紀の後半、イギリスで茶が飲まれはじめた。1662年にポルトガルから嫁いだ王妃キャサリン・オブ・ブラガンザが、宮廷に茶の習慣を広めたとされる。初めは薬であり、高価な贅沢品だった。18世紀を通じて消費は増え続け、砂糖を入れて飲む茶は、19世紀には労働者の家庭にまで行きわたる国民の飲み物になる。
茶は中国でしか作られていなかった。製法も、茶の木も、国の外には出ていない。イギリス東インド会社がこの取引を独占し、18世紀の後半には、会社が中国で買い付ける品の大半が茶になった。茶にかかる関税は、イギリス政府の大きな収入でもあった。税が高すぎて密輸が横行したため、1784年に関税が大幅に引き下げられると、正規の輸入は一気に増えた。

清の側は、取引の場所と相手を厳しく限った。1757年、乾隆帝は西洋の船の来航を広州の一港に限らせた。外国の商人は珠江沿いの「十三行」と呼ばれる商館の並ぶ一角に住み、交易の季節が終わるとマカオへ退かねばならなかった。取引の相手は、公行(コホン)と呼ばれる十数家の指定商人に限られる。役人に直接訴えることもできず、すべては公行を通す。この仕組みを広東システムと呼ぶ。
イギリスが売れるものは、ほとんど無かった。毛織物は暑い南中国では売れず、時計や機械仕掛けの玩具を欲しがるのは一部の富裕層に限られる。代金は銀で払うしかない。18世紀のあいだ、アメリカ大陸で掘られた銀が、ヨーロッパを経て大量に中国へ流れ込んだ。1793年のマカートニー使節団は、この一方的な関係を外交で変えようとした試みだったが、何も得られずに終わった。

流れを逆にする品は、インドにあった。プラッシーの戦いの後、東インド会社はベンガルを支配し、1770年代からアヘンの生産を専売にした。ただし会社自身は中国へアヘンを運ばない。清はアヘンを禁じていたからだ。会社はカルカッタの競売でアヘンを民間の商人に売り、その商人たちが広州の沖で中国の密売人に渡す。代金の銀は広州で会社に払い込まれ、会社はそれで茶を買った。茶とアヘンと銀の三角形ができあがった。
1820年代、アヘンの流入は急増し、銀の流れが逆転する。中国から銀が出ていくようになった。清では銀の値が上がり、ふだん銅銭で暮らし、税は銀に換えて納める農民の負担が重くなった。アヘンの中毒は役人や兵士にも広がった。1834年に東インド会社の対中国貿易の独占が廃止されると、民間の商人が押し寄せ、密輸はさらに増えた。
清の朝廷では、アヘンを公認して税をかけよという意見と、厳しく禁じよという意見が対立した。道光帝は厳禁を選び、林則徐を欽差大臣として広州へ送った。1839年、林則徐は外国商人に在庫のアヘンを差し出させ、2万箱余りを虎門の浜で石灰と塩水に混ぜて処分し、海に流した。イギリスの議会は僅差で派兵を認め、翌1840年、アヘン戦争が始まる。

1842年の南京条約で、広州一港の制限と公行の独占は廃止され、上海など5つの港が開かれ、香港島がイギリスに割譲された。広州の茶貿易を形づくってきた仕組みは、ここで終わった。
そのあとイギリスは、茶の木そのものを手に入れにかかった。インドのアッサムでは自生の茶の木が見つかり、1839年にはアッサムの茶がロンドンで初めて競売にかけられた。1848年からは植物学者ロバート・フォーチュンが中国の内陸に入り、茶の苗木と種と職人をインドへ送った。セイロン(スリランカ)では、病気でコーヒーの農園が壊滅した後、1870年代から茶への植え替えが進む。19世紀の末には、イギリス人の飲む茶の大半が、帝国の内側で作られるようになっていた。

アメリカでも、茶は政治になった。1773年のボストン茶会事件で、植民地の人びとが港に投げ捨てたのは、東インド会社が運んできた中国の茶だった。一杯の飲み物の習慣が、遠い港の取引の仕組みを動かし、海の向こうの戦争の理由になった。