清の中国支配
概要
明が滅び、満洲族の清が北京に入った。中国最後の王朝が始まる。
場所
34.62°N 112.45°E · 中国・河南省
関わった人(1)
康熙帝AD1654年–AD1722年 · のちに版図を固める本文
17世紀の初め、明の成立から250年ほどたった明は、内側から弱っていた。皇帝は政務を怠り、宮中では宦官と官僚の派閥が争い、豊臣秀吉の朝鮮出兵に援軍を送った戦費が財政を圧迫していた。そのうえ17世紀は、世界的に気温が下がった時期にあたり、華北では日照りと飢饉が続いた。税の取り立ては厳しくなる一方で、食べられなくなった農民と、給料を払われなくなった兵士が反乱に加わった。
北東の外では、別の力が育っていた。満洲の森と平野に住む女真の諸部を、ヌルハチがまとめ上げ、1616年に後金を建てた。ヌルハチは人々を八つの軍団(八旗)に組み込み、戦うときも暮らすときも、その単位で動かした。1619年のサルフの戦いで明の大軍を破り、遼東の平野を手に入れる。跡を継いだ息子のホンタイジは、内モンゴルの諸部を従え、1635年に民族の名を女真から満洲に改め、翌年には国号を清とした。明の降将や漢人の兵も八旗に取り込み、清は満洲人だけの国ではなくなっていった。ただ、山海関という長城の東の端の堅い関所が、清の前に立ちふさがっていた。

明を倒したのは清ではなかった。陝西の飢えた農民の中から出た李自成の軍は、各地の反乱を吸い込んでふくれあがり、1644年4月、北京を囲んだ。城内の守りはほとんど崩れており、崇禎帝は宮殿の北の景山で自ら首をくくった。276年続いた明の王朝は、ここで実質的に終わった。
山海関を守っていた明の将軍呉三桂は、このとき、関の内側の李自成と、外側の清とに挟まれた。呉三桂が選んだのは、清と手を組むことだった。父や家族が李自成に捕らえられ、愛妾を奪われたことが決め手になったという話が伝わるが、これは後の詩や物語で膨らまされた面がある。清の摂政ドルゴンは、幼い順治帝に代わって大軍を率いており、呉三桂とともに山海関の戦いで李自成の軍を破った。李自成は北京へ逃げ帰って即位の儀式を慌ただしく済ませると、宮殿に火を放って西へ去った。

1644年6月、清の軍は北京に入った。明の皇帝の仇を討つという名目だったが、清はそのまま居座り、秋には順治帝を北京に迎えて、中国全土の皇帝として即位させた。南京では明の皇族が立てられて抵抗が続いたが(南明)、清の軍は南へ進み、揚州では10日にわたる殺戮があったと伝えられる。
清がとった方針は、二つの面を持っていた。一つは、明の仕組みをできるだけそのまま使うことである。六部などの役所も、地方の行政も、儒学の古典に基づく科挙も残した。1646年には早くも科挙が行われ、漢人の知識人を官僚に迎えた。中央の役所の長官には満洲人と漢人を同じ数だけ置き、満洲人が監視しながら漢人の力を使う形を作った。

もう一つが、辮髪の強制である。1645年、清は漢人の男にも満洲の髪型を命じた。頭の前と周りを剃り、後ろの髪だけを長く伸ばして編む。「頭を留める者は髪を留めず、髪を留める者は頭を留めず」、つまり髪を切らなければ首を切るという意味の言葉で伝えられる。親からもらった体を傷つけないという儒学の考えに背く命令に、江南の町々では激しい抵抗が起き、嘉定などで多くの住民が殺された。服従したかどうかが、一目で分かる形になった。
満洲人は、漢人に比べればごくわずかな数にすぎなかった。その少数が広い中国を治めるために、制度は借り、外見と忠誠は従わせる。その組み合わせが、この王朝のやり方になった。

それでも、支配が固まるまでには40年近くかかった。南明の最後の皇帝はビルマへ逃れた後に引き渡され、1662年に殺された。同じ年、鄭成功の台湾で抵抗の拠点が海の向こうに移った。清の征服に手を貸した呉三桂ら漢人の将軍たちは、南方に半ば独立した領地を与えられていたが、1673年に若い康熙帝がその廃止を図ると反乱を起こした(三藩の乱)。康熙帝は8年かけてこれを鎮め、1683年には台湾の鄭氏も降した。
その後、康熙・雍正・乾隆の3代のあいだに、清はモンゴル、チベット、新疆を版図に収め、中国の歴史で最も広い領土を持つ王朝の一つになった。乾隆帝の治世の後、清は欧米の圧力と内乱に揺れ、1911年の辛亥革命を経て、翌年に最後の皇帝が退位する。北京に入ってから268年、清は中国最後の王朝となった。いまの中国の国境の多くは、この王朝が広げた版図を受け継いでいる。