宋の活字と羅針盤
概要
膠泥活字、羅針盤の航海利用、火薬の兵器化。世界を変える技術がこの時期の中国から出る。
場所
34.80°N 114.31°E · 中国・河南省
本文
10世紀の後半に成立した宋は(宋の成立)、軍人ではなく、科挙で選ばれた文人の官僚が国を治める王朝だった(宋の科挙と士大夫)。都の開封には商人と職人が集まり、紙幣が使われ、夜も眠らない繁華な町が広がった。武力では北の遼や西夏に押されがちだったが、経済と文化と技術では、当時の世界の最先端にあった。のちに世界を変えることになる技術のいくつかが、この時代の中国で形を整えている。
その一つが、印刷である。中国では、唐の時代から、一枚の板に文字や絵を彫って刷る木版印刷が行われていた。宋の時代には、国が仏教の経典の全集や、儒教の経典、歴史書を大々的に刷り、民間の書店も、科挙の受験の参考書や暦、詩文集を盛んに出版した。書物が手書きの写本から刷り物へと移り、知識が広く行き渡るようになった。
11世紀の半ば、慶暦年間(1041〜48年)に、畢昇という人が、粘土を焼き固めた活字を作った(畢昇の活字)。一字ずつ活字を作っておき、松やにや蝋を塗った鉄の板の上に並べて版を組む。刷り終われば、板を温めて活字を外し、また別の版に使える。この方法を書き残したのは、同じ時代の学者沈括の随筆『夢渓筆談』である(『夢渓筆談』)。畢昇がどのような人物だったのかは、この記事のほかにはほとんど分かっていない。

だが、活字は中国ではあまり広まらなかった。漢字は何千字もあり、よく使う字は何十個も同じ活字を用意しなければならない。活字を作り、並べ、片付ける手間を考えると、一枚の板に彫るほうが早く、安く済むことが多かった。とくに、同じ本を何度も刷り増すには、版木を残しておくほうが便利だった。技術が優れていても、使う文字の性質が、その技術が採用されるかどうかを左右したのである。その後、元の時代には王禎が木の活字を作り、高麗では金属の活字で本が刷られた(『直指』の印刷)。アルファベットの少ない文字を使うヨーロッパで、15世紀にグーテンベルクの活版印刷が爆発的に広まったのとは対照的である(グーテンベルクの活版印刷)。
二つ目が、羅針盤である。磁石が南北を指すことは、中国では古くから知られていた。沈括は『夢渓筆談』の中で、磁石でこすった針を糸でつるしたり、水に浮かべたりして方角を知る方法を記している。さらに、針の指す向きが真南からわずかにずれていること、つまり磁気の偏角にも触れている。ヨーロッパで偏角が知られるより、数百年早い記録である。

12世紀のはじめには、広州から出る船の水先案内人が、夜や曇りの日には針を見て方角を知る、という記録が現れる(羅針盤が海に出る)。星や太陽が見えなくても、海の上で方角が分かる。これによって、南シナ海からインド洋へ向かう航海は、ずっと確かなものになった。宋の時代、泉州や広州の港には、アラブやペルシアの商人の船が数多く出入りしていた。
三つ目が、火薬である。硝石と硫黄と炭を混ぜると激しく燃えることは、唐の時代、不老不死の薬を求めて薬を練っていた道士たちの間で知られるようになったとされる。混ぜると燃え上がって手やひげを焼き、家まで焼くことがあるから気をつけよ、と戒める書物も残っている。命を延ばす薬を探して、命を奪う物が見つかったことになる。

宋の時代、火薬は兵器になった。1044年に国が編纂した兵法書『武経総要』には、火薬の調合の割合と、それを使った火の矢や爆弾の作り方が記されている。火薬の調合法を記した文書としては、世界で最も古いものの一つである。宋は、北の遼や金、そしてモンゴルとの戦いで、火薬を詰めた投げ弾や、竹の筒から火を噴く武器を使った。火薬の知識は、モンゴルの拡大とともに西へ伝わったと考えられている。
17世紀のはじめ、イギリスのフランシス・ベーコンは、印刷術・火薬・羅針盤の三つが、世界の姿を一変させたと書いた。学問を、戦争を、航海を変えたというのである。ベーコンはその起源を知らなかったが、三つとも、その源をたどれば中国にたどり着く。そして中国でそれらの技術が形を整えたのが、宋の時代だった。