班超の西域経営
概要
少ない手勢で西域50余国を漢に付け、都護となった。絹の道が再び通じる。
関わった人(1)
班超AD32年–AD102年 · 当人本文
班超は、32年、後漢の初めに、扶風の学者の家に生まれた。父の班彪は歴史を書き継いだ学者で、兄の班固はその仕事を継いで『漢書』の完成を著した。妹の班昭も、兄の死後に『漢書』を仕上げ、女性の心得を説く書を残した学者になる。
一家は豊かではなかった。兄が都の洛陽で書物の仕事に召されると、班超も母とともに都に出て、役所の文書を書き写す仕事で家族を養った。ある日、班超は筆を投げ捨てて嘆いた。男子たるもの、ほかに大きな志が無くても、せめて傅介子や張騫(張騫の西域派遣)のように、異域で功を立てるべきだ。こんなところで筆と硯にしがみついていられるか、と。周りの者は笑ったという。「投筆従戎」(筆を投げて軍に従う)という言葉はこの話から来ている。

西域とは、いまの新疆のタリム盆地に点在するオアシスの国々を指す。前漢は匈奴と争ってこの地を押さえ、都護を置いていたが、前漢の末の混乱で手放し、西域の国々は再び北の匈奴に従っていた。後漢の明帝の時代、漢は再び匈奴を討ち、西域を取り戻そうとした。
73年、40歳を過ぎた班超は、将軍竇固の遠征に加わって匈奴と戦い、手柄を立てた。竇固は、西域の国々を漢に付かせるため、班超を使者として送り出した。従う者は、わずか36人だった。

最初に向かった鄯善(楼蘭)では、王は初め手厚くもてなしたが、やがて急に態度が冷たくなった。匈奴の使者が来ているのだと、班超は見抜いた。班超は部下を集めて言った。「虎穴に入らずんば虎子を得ず」。今夜、匈奴の使者の宿営に火を放って襲えば、相手はこちらの人数が分からず、慌てて全滅するだろう、と。その夜、風に乗せて火を放ち、太鼓を打ち鳴らして襲い、匈奴の使節団を討ち取った。翌朝、班超が匈奴の使者の首を見せると、鄯善の王国じゅうが震え上がり、漢に従った。
次の于闐(ホータン)では、匈奴を後ろ盾にする巫者が、漢の使者の馬を神に捧げよと王に言わせた。班超は巫者に自分で馬を取りに来させ、その場で首を斬った。王は恐れて、匈奴の使者を殺して漢に降った。
75年、明帝が死に、西域の国々が次々に背くと、朝廷は班超に帰国を命じた。班超が帰ろうとすると、疏勒(カシュガル)の人々は、漢の使者に見捨てられれば亀茲に滅ぼされると嘆き、自ら命を絶つ者まで出た。于闐では、王侯たちが班超の馬の脚に抱きついて引き留めた。班超は引き返し、西域に留まることを決めた。
以後、班超はほとんど本国からの兵を得ないまま、30年近く西域で戦った。従った国々の兵を集めて、背いた国を討つ。夷を以て夷を制す、のやり方だった。偽って退くと見せかけて敵を分散させるなど、策略にも長けていた。90年には、西方の大国クシャーナ朝(クシャーナ朝の隆盛)が7万の大軍を送り込んできたが、班超は城を固め、食料を野から引き上げて敵を飢えさせ、退かせた。
91年、最後まで抵抗していた亀茲などが降り、班超は西域都護に任じられた。94年までに、西域の50あまりの国が漢に人質を送って従った。97年には、部下の甘英を、西の果ての大国「大秦」(ローマ)へ向けて送り出している。甘英はペルシア湾のあたりまで進んだが、海を渡るには長い月日がかかると聞かされて引き返した。これが、漢の使者が西へ最も遠く進んだ記録になる。のちの166年には、大秦の王の使者を名乗る一行が、逆に海路で漢にやってくる(大秦王安敦の使者)。
70歳近くなった班超は、帰国を願い出る上書を送った。「酒泉郡に至ることは望みません。ただ生きて玉門関に入ることを願います」。妹の班昭も、兄を帰してほしいと朝廷に願い出た。102年、班超は洛陽に帰り着き、1か月ほどで亡くなった。71歳だった。
後任の任尚が心得を尋ねると、班超は、水が清すぎると大きな魚は棲まない、細かいことにこだわらず大まかに治めよ、と助言したという。任尚はこれを平凡な話だと受け流し、厳しく治めて西域の人々の心を失った。数年のうちに西域は再び背き、漢は都護を引き揚げることになる。
班超が西域をまとめたあいだ、オアシスを結ぶ道は再び通じ、絹や物資が東西を行き交った。36人で始まったその仕事は、一人の人物の才覚にどれほど多くのことがかかっていたかを示している。