司馬炎
概要
司馬昭の長子。武帝。禅譲で晋を建て、呉を取って統一した。太康の治。占田法。それから羊の車で後宮を回り、羊が止まった所で寝た。後宮1万人。一族を27の王に封じて兵を持たせ、白痴の息子を太子にした。死んで1年で八王の乱。
関わったできごと(2)
司馬炎の晋建国AD266年2月 · 皇帝呉の滅亡(晋の統一)AD280年3月 · 皇帝本文
236年に生まれた。字は安世。祖父は魏の重臣、司馬懿である。司馬懿は諸葛亮の北伐を防ぎ、249年には政変を起こして曹氏の一族から実権を奪った。その権力を伯父の司馬師、父の司馬昭が引き継ぎ、263年には蜀を滅ぼした。司馬炎が成人する頃、魏の皇帝はすでに司馬氏の操り人形にすぎなかった。父の司馬昭は晋王の位に上り、あとは帝位を受け継ぐばかりになっていた。

265年8月、父の司馬昭が亡くなり、長男の司馬炎が晋王を継いだ。その年の12月、魏の最後の皇帝、曹奐から位を譲られ、晋の皇帝として即位した(司馬炎の晋建国)。45年前、曹操の子の曹丕が後漢の皇帝から位を譲られたのと同じ、禅譲という形だった。都は洛陽に置いた。これが西晋で、司馬炎はのちに武帝と呼ばれる。
司馬炎が魏の歴史から学んだ教訓は、皇帝の一族を弱くしすぎたことが、司馬氏による乗っ取りを許したということだった。魏の皇族は領地を与えられながら兵も権限も持たされず、監視されて暮らしていた。そこで司馬炎は即位するとすぐ、叔父や兄弟、いとこたち一族27人を王に封じ、のちには国の大きさに応じて兵を持つことを認めた。皇帝に何かあれば一族が帝室を守る、という考えだった。
280年、晋は長江の南に残っていた呉を滅ぼした(呉の滅亡(晋の統一))。前年の冬、晋の大軍は長江の上流から下流まで、いくつもの道から一斉に攻め込んだ。上流の益州で造られた大船団は長江を下り、呉の都の建業に迫った。呉の最後の皇帝孫皓は降伏した。184年の黄巾の乱から100年近く、魏、蜀、呉の三国に分かれていた中国は、再び一つになった(晋による統一)。
統一を果たした司馬炎は、年号を太康と改め、新しい国の仕組みを整えた。人々が持つことのできる田の広さの上限を定め、それに応じて税を取る占田法と課田法、戸ごとに布や綿を納めさせる戸調式を定めた。戦乱で荒れた土地に人を戻し、税の基盤を立て直すための制度だった。さらに、天下が平定されたとして、地方の州や郡が持っていた兵を大幅に減らし、州の長官である刺史を民政に専念させた。この時代は、のちに「太康の治」とたたえられた。人口も回復し、洛陽には繁栄が戻った。
だが、統一を果たした司馬炎は、政治への熱意を急速に失った。呉を滅ぼしたあと、孫皓の後宮にいた数千人の女性を自分の後宮に入れ、その数は1万人近くになったという。即位して間もない273年には、良家の娘を後宮に選ぶために、天下の婚姻を一時禁じたこともあった。あまりに多くて誰のもとへ行くか決められず、羊に引かせた車に乗って後宮を回り、羊が止まったところで夜を過ごした。女性たちは羊を自分の部屋の前に呼び寄せようと、羊の好む竹の葉を戸口に挿し、地面に塩水をまいたと『晋書』は伝える。
宮廷には贅沢の風が広がった。富豪の石崇と、皇帝の叔父の王愷が富を競い合ったとき、司馬炎は王愷に高さ2尺ほどの珊瑚の木を与えて肩入れした。王愷がそれを石崇に見せると、石崇は鉄の如意でたたき割り、もっと高い珊瑚を何本も持ってきて見せたという。このころ、政治の場を離れて老荘の思想や酒に身を寄せた知識人たち(竹林の七賢)の気風も、貴族の間に広まっていた。

最大の問題は後継ぎだった。皇太子の司馬衷は、知恵の遅れがあったと伝えられる。のちに皇帝になってから、民が飢えて穀物も無いと聞いて、なぜ肉の粥を食べないのか、と言ったという話が『晋書』にある。廷臣たちの多くは、人望のある司馬炎の弟、斉王の司馬攸に期待した。だが司馬炎は息子を太子のまま据え置き、282年、弟に都を離れて自分の領国へ行くよう命じた。司馬攸は憤りのあまり病に倒れ、翌年亡くなった。
290年4月、司馬炎は55歳で亡くなった。死の床にあった皇帝のそばで、皇后の父の楊駿は遺言を自分に都合のよいように書き換え、新しい皇帝の後見の地位を独り占めにしたとされる。皇太子が即位して恵帝となった。翌291年、恵帝の皇后の賈南風が楊駿を殺し、続いて皇族どうしの争いが始まった。司馬炎が兵を与えて王に封じた一族たちが、次々に兵を挙げて都に攻め上り、殺し合った。これが八王の乱である(八王の乱)。州や郡の兵はすでに減らされていて、乱を止められる者はいなかった。

内乱に乗じて、北方から移り住んでいた匈奴などの遊牧系の人々が自立を始めた(五胡十六国)。311年には洛陽が匈奴の軍に落とされて皇帝が連れ去られ、316年には長安も落ちて、西晋は滅んだ。司馬炎の死から26年後のことである。晋の皇族の一人が長江の南に逃れ、建康で東晋を開いた(東晋の成立)。中国は再び、南北に分かれた長い分裂の時代に入った。
司馬炎は三国を統一した皇帝であり、同時に分裂の種をまいた皇帝でもあった。一族を王にして兵を持たせたこと、地方の兵を解いたこと、太子を替えなかったこと、外戚に後を託したこと。そのどれもが、彼の死後わずか数年で災いとなって表れた。一方、彼の時代には、魏に仕えたあと晋に仕えた陳寿が、三国の歴史を一つの書物にまとめた(陳寿『三国志』)。晋は魏から位を譲られた王朝だったので、陳寿は魏を正統な王朝として扱い、魏の君主を「帝」として本紀に立て、蜀と呉の君主は列伝に収めた。のちの『三国志演義』で語られる英雄たちの物語(三国の鼎立)は、司馬炎の時代に一つの歴史として書き残されたものから始まっている。