人物

黄巣

Huang Chao
? – AD884年
唐重要度 3

概要

塩の密売人で、科挙に落ちた。反乱軍を率いて南は広州、北は長安まで行き、皇帝を称した。長安を出るとき街を焼き、敗れて自死した。

所属

唐

関わったできごと(1)

黄巣の乱AD875年 · 首領

本文

黄巣は、唐の曹州冤句(いまの山東省菏沢のあたり)の人である。生まれた年は分からない。家は代々、塩の密売で財を成していた。唐の後半、国の財政は塩の専売に大きく頼っており、役所の塩は税を上乗せされて値が高かった。安い密売の塩を運ぶ商人たちは、役人の取り締まりに対抗するために武器を持ち、仲間を組んで動いた。黄巣もそうした世界で、馬に乗り、弓を射、剣を使うことを覚えた。一方で読み書きにも通じ、官僚になるための試験、科挙の進士科を何度か受けている。だが合格しなかった。

黄巣の肖像
黄巣の肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

落第した後に詠んだとされる菊の詩が伝わっている。秋が来て九月八日になり、わが花が咲けば百の花はみな枯れる、天を衝く香りの陣は長安を貫き、都じゅうが黄金の鎧をまとう、という内容である。菊は九月九日の節句の花で、黄色い菊の花びらを黄金の鎧に見立て、自分の名の「黄」とも重ねている。のちの反乱を予言したような詩だが、記録されたのは後の時代の書物で、本当に彼の作かどうかは分からない。

9世紀の後半、唐は傾いていた。安史の乱以来、地方には節度使と呼ばれる軍閥が根を張り、都の朝廷では宦官が皇帝の廃立まで左右した。870年代に入ると、華北一帯を日照りと蝗の害が襲い、飢えた農民が流民となった。それでも役所は税を取り立て続けた。

『残唐五代史演義伝』に描かれた黄巣
『残唐五代史演義伝』に描かれた黄巣Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

874年ごろ、同じ塩の密売人だった王仙芝が、河南で兵を挙げた。翌875年、黄巣も仲間とともにこれに加わった(黄巣の乱)。飢えた農民たちが次々に合流し、反乱軍は数万にふくれ上がって、中原の各地を荒らし回った。

朝廷は討伐と懐柔を両方使った。876年、王仙芝に官職を与えて降伏させようとする話が持ち上がった。王仙芝は応じかけたが、黄巣は激しく怒った。初めに皆で誓い合って天下を横行してきたのに、いまお前一人が官職を得て行ってしまえば、この5000人あまりの者たちはどこへ帰ればよいのか、と言って王仙芝を殴りつけ、頭に傷を負わせたと『新唐書』は書く。王仙芝は降伏をあきらめたが、これを機に二人は別々に行動するようになった。878年、王仙芝は唐の軍に敗れて殺され、その残党を黄巣が率いることになった。黄巣は自ら衝天大将軍と名乗った。

華北の唐の軍に押された黄巣は、南へ向かった。長江を渡り、浙江から山を切り開いて福建へ抜け、879年、南海の大きな港町、広州を攻め落とした。広州は、アラブやペルシアの商人が多く住む国際的な交易都市だった。同じ時代のアラブの書物は、このとき黄巣の軍が、イスラーム教徒やユダヤ教徒、キリスト教徒など、外国の商人12万人を殺したと伝えている。数は誇張とみられるが、この港の繁栄が大きな打撃を受けたことは確かで、以後しばらく、アラブの船は中国まで来なくなったという。

黄巣は朝廷に、広州を治める節度使の地位を求めたが、拒まれた。南の暑さと疫病で兵の多くが倒れ、彼は再び北へ向かう。長江を下り、淮河を渡り、880年の暮れに洛陽を落とし、翌881年の初め、ついに長安に入った。皇帝の僖宗は、宦官たちに連れられて蜀(いまの四川)へ逃れていた。

黄巣は長安の宮殿で皇帝の位につき、国の名を「大斉」とした。入城したときには、民衆に向かって、自分は民のために兵を挙げたのであり、唐の皇帝のように民をいつくしまないことはしない、と宣言させたと記録される。だが長安の暮らしは、まもなく恐怖に変わった。唐の皇族や高官は捕らえられて殺され、兵士の略奪も止まなかった。同じ時代の詩人韋荘は、長編の詩『秦婦吟』で、都大路は公卿の骨で踏み固められた、と当時の長安を描いている。

大斉の政権は長くは続かなかった。長安は周りを唐の軍に囲まれ、食糧が尽きた。882年、配下の有力な将軍朱温が唐に寝返った。唐の朝廷は大いに喜び、朱温に全忠という名を与えた(朱全忠(朱温))。さらに唐は、北方の遊牧系の沙陀族の首領李克用を呼び寄せた。黒い衣で統一された李克用の騎兵は、鴉軍と呼ばれて恐れられた。883年、黄巣は長安を捨てて東へ逃れた。去り際には宮殿に火を放ったと伝えられる。

それからの黄巣は、追われ続けた。884年、山東の泰山の東南、狼虎谷と呼ばれる谷に追い詰められ、そこで死んだ。自ら命を絶ったとも、甥の林言に首を斬られたとも伝わり、史書の記述も分かれている。

反乱は鎮められたが、唐はもう元には戻らなかった。黄巣を討った将軍たちが、それぞれの地方で独立した王のようにふるまい、朝廷はその間で翻弄された。そして、黄巣を裏切って唐についた朱全忠が、最後には唐の皇帝を廃して、907年に自ら後梁の皇帝となった(唐の滅亡)。黄巣の死から23年後のことである。300年近く続いた唐を実際に終わらせたのは、黄巣の反乱が生み出した将軍たちだった。

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