霍去病
概要
18歳で初陣、20歳で河西を取り、22歳で匈奴の祭祀の地まで攻めた。「匈奴が滅びぬうちは家など要らぬ」と言い、24歳で死んだ。
所属
前漢関わったできごと(1)
霍去病の河西遠征BC121年 · 総指揮本文
霍去病は、身分の低い母から生まれた。母の衛少児は、武帝の姉である平陽公主の屋敷に仕える女性で、父の霍仲孺は役所の小役人として屋敷に出入りしていた男だった。二人は正式に結ばれず、父は子を残して故郷へ帰った。生まれた年は紀元前140年ごろとされる。

運命を変えたのは、母の妹の衛子夫だった。屋敷で歌い手をしていた衛子夫が武帝に見初められて後宮に入り、やがて皇后になる。母の弟、つまり叔父の衛青も、屋敷の馬番から武帝に引き立てられて将軍になった。霍去病は皇后の甥として、少年のころから武帝のそば近くに仕えた。弓と馬に優れ、武帝に気に入られた。
当時の漢は、北の匈奴との戦いの最中にあった。建国以来、漢は匈奴に贈り物と皇族の娘を送って和を保ってきたが、漢の武帝はその方針を捨て、大軍で草原へ攻め込む戦いを始めていた。その先頭に立ったのが衛青である(衛青の河南奪回)。

紀元前123年、数えで18歳の霍去病は、衛青の遠征に加わった。800騎の軽騎兵を率いて本隊から数百里も離れて進み、匈奴の陣営を急襲して、単于の祖父の世代にあたる貴人を討ち、単于の叔父を捕らえた。この功で冠軍侯に封じられる。軍の中で最も手柄を立てた、という意味の名である。
紀元前121年、20歳で驃騎将軍となり、黄河の西、祁連山脈の北に延びる回廊地帯へ二度遠征した(霍去病の河西遠征)。騎兵だけで、補給の隊列をほとんど持たず、敵の家畜と食糧を奪いながら1000キロ以上を走り回る戦い方だった。春の遠征では、匈奴の休屠王が天を祭るのに使っていた金人(金色の像)を奪った。その秋、匈奴の渾邪王が漢に降ることを申し出ると、霍去病が受け入れに向かった。降伏を前に渾邪王の陣中が動揺し、逃げようとする者が出ると、霍去病は馬を走らせて陣に入り、逃げる者8000人を斬って場を収めた。4万を超える人びとが漢に入り、河西回廊は漢のものになった。張騫の西域派遣で探られた西方への道がこれでつながり、ここに河西四郡が置かれていく。匈奴の人びとが、祁連山と焉支山を失った悲しみを歌ったという歌が後世の書物に伝わるが、これは伝承として読むべきものである。

紀元前119年、22歳の霍去病は、衛青とそれぞれ5万の騎兵を率いて、ゴビの砂漠を越えた。衛青は単于の本隊とぶつかり、霍去病は東寄りの道を2000里余り進んで、匈奴の左賢王の軍を破った。追撃して狼居胥山に至り、そこで天を祭る儀式を行い、さらに北の瀚海(大きな湖か砂漠とされる)を望んだ。匈奴の本拠を奥深く突いたこの戦いの後、匈奴は砂漠の南から姿を消したと『史記』は書く。霍去病と衛青はそろって大司馬の位を与えられた。
人柄については、司馬遷の『史記』が率直に書いている。口数が少なく、決断は大胆だった。武帝が昔の兵法を学ばせようとすると、「どう戦うかを考えるだけで、古い兵法を学ぶまでもありません」と答えた。武帝が立派な邸宅を建てて見せると、「匈奴がまだ滅んでいないのに、家など要りません」と断った。この言葉は『史記』に記されている。

一方で、司馬遷は欠点も隠さない。若くして貴い身分になったため、兵士を思いやることを知らなかった。遠征から戻ると、運ばせた車に食べきれない肉が余って捨てられていたが、兵の中には飢えている者がいた。砂漠で兵が食糧に困っているときにも、地面を整えさせて蹴鞠をしていた、という。また、父の老将李広の自害を衛青のせいだと恨んで衛青を殴った李敢を、狩りの最中に射殺している。武帝はこれをかばい、鹿の角に突かれて死んだことにした。
紀元前117年、霍去病は数えで24歳で死んだ。病死とされるが、何の病かは分からない。武帝は深く悲しみ、鉄の鎧を着た兵士を長安から自分の陵墓の茂陵まで並べて葬列を送らせた。墓は、彼が戦った祁連山の形に土を盛って築かれた。墓の前には、馬が匈奴の兵を踏みつけている石の像が置かれ、いまも残っている。前漢を代表する石の彫刻の一つとされる。

霍去病の死後、異母弟の霍光が武帝に仕え、のちに武帝の遺言で幼い皇帝を補佐する大臣として20年近く権力を握った。霍去病その人は、後世、若くして大功を立てて早く死んだ名将の典型とされ、「封狼居胥」(狼居胥山で天を祭る)は、辺境での大勝利を表す言葉として長く使われた。