蕭衍(梁の武帝)
概要
竟陵八友の文人が、斉を倒して梁を建てた。48年。最初の20年は善政。それから仏教。同泰寺。捨身。肉を断ち、女を遠ざけ、皇帝菩薩。侯景を受け入れて台城に囲まれ、餓死した。「私の天下は私が得て私が失った。恨みはない」。
関わったできごと(1)
梁の武帝の捨身AD527年 · 皇帝本文
蕭衍、字は叔達、幼名は練児。464年、南朝の宋の時代に生まれた。本籍は南蘭陵(いまの江蘇省常州の一帯)で、南斉を建てた蕭道成とは同じ一族の遠い親戚にあたる。若いころの蕭衍は武人である前に文人だった。南斉の皇族、竟陵王蕭子良の屋敷には当代の文学者が集まり、そのうち沈約、謝朓、王融、任昉、范雲、蕭琛、陸倕、そして蕭衍の8人は「竟陵八友」と呼ばれた。詩を作り、仏典を論じ、音律を競う仲間たちのなかで、蕭衍は一目置かれる存在だった。

498年、北の国境に近い襄陽を守る雍州刺史になった。南斉の朝廷は乱れていた。若い皇帝蕭宝巻(のちに東昏侯と貶められる)は遊びにふけり、功臣を次々に殺した。500年、蕭衍の兄蕭懿も、反乱を鎮めた功を立てた直後に毒を賜って死んだ。蕭衍は襄陽で兵を挙げ、長江を下って都の建康を囲んだ。501年の暮れ、城内の家臣が東昏侯を殺して門を開いた。蕭衍は皇族の一人を和帝として立てたが、502年、和帝から位を譲られる形で即位し、国号を梁とした。年号は天監。譲った和帝はまもなく殺された。
即位してからの20年あまり、梁の武帝の治世は南朝でいちばん安定した時代になった。武帝は五経博士を置いて国の学校を開き、家柄によらず試験で学生を取り立てる道を広げた。官職の格付けを整理し、法律を改めた。夜明け前から政務を執り、冬には筆を持つ手がひび割れても続けたと『梁書』は書く。食事は一日一回、野菜と豆だけ、着るものは綿の粗末な衣で、一つの冠を3年かぶったという。皇太子の蕭統(昭明太子)は古今の名文を集めて『文選』を編んだ(『文選』)。都の建康は、北の戦乱を逃れてきた人々と、商いと、寺で栄えた。唐の詩人杜牧が「南朝四百八十寺」と詠んだのは、この都の名残である。

武帝は年を重ねるにつれて仏教に傾いていった。天監の半ばには、宗廟の祭りで生きた牛や羊を供えるのをやめさせ、小麦粉で形を作らせた。519年、自ら菩薩戒を受けた。僧が酒と肉を口にすることを戒める文を出し、中国の僧が肉食をしない伝統はここから定まったとされる。武帝自身も肉を絶ち、後宮から遠ざかった。人々は彼を「皇帝菩薩」と呼んだ。
527年、武帝は都の同泰寺に入り、皇帝の身を捨てて寺の奴僕になると宣言した。これが「捨身」である(梁の武帝の捨身)。群臣は莫大な銭を寺に納めて皇帝を「買い戻し」、武帝は宮殿に戻った。捨身はその後も何度も繰り返され、そのたびに国庫から寺へ巨額の銭が流れた。
禅宗の伝承では、インドから来た菩提達磨がこの武帝に会ったことになっている。寺を建て、経を写し、僧を養ってきた自分にはどんな功徳があるか、と尋ねた武帝に、達磨は「功徳なし」と答え、武帝が悟らなかったので北へ去ったという(達磨の渡来(伝承))。この問答は後の禅の書物で作られたもので、史実ではない。だが、善行を積み上げることに熱心で、それが何を生むかを見ていなかった皇帝、という後世の目をよく映している。
慈悲は政治にも及んだ。武帝は罪を犯した皇族や臣下を、身内だからと許した。弟の蕭宏は蔵に銭を積み上げ、謀反を疑われても罰せられなかった。養子の蕭正徳は北魏へ逃げて戻ってきても許された。地方の役人は民から搾り、法は名ばかりになっていった。
547年、北の東魏の将軍侯景が、河南の地を手土産に梁へ降ると申し出た。群臣の多くは反対したが、武帝は中原を取り戻す夢を見たばかりだと言って受け入れた。ところがその後、武帝が東魏との和睦を進めたため、取引に使われることを恐れた侯景は548年に背いた。わずか数千の兵で長江を渡れたのは、蕭正徳が内から手引きしたからである。侯景は宮城の台城を囲んだ(侯景の乱)。各地の皇族は救援の軍を出したが、互いに牽制し合って本気で戦わず、城内は飢えと疫病に苦しんだ。
549年3月、台城は落ちた。武帝はこのとき、私が得た天下を私が失うのだ、何を恨むことがあろうか、と言ったと『梁書』は伝える。引き出された侯景は、86歳の皇帝の前で汗を流して答えに詰まり、外に出てから、戦場では恐れたことがないのに、あの老人の前では身がすくんだと語ったという。
その後、武帝は事実上幽閉され、食事も満足に与えられなかった。5月、口の中が苦いと言って蜜を求めたが与えられず、そのまま死んだ。在位は48年に及んだ。侯景は傀儡の皇帝を立てたのち自ら帝を名乗ったが、552年に王僧弁と陳霸先の軍に敗れて殺された。長江の南は荒れ果て、557年、陳霸先が陳を建てて梁は終わった。
武帝の時代、梁の仏教は朝鮮半島の百済へ流れ込み、百済は梁に経典や工人を求めた。百済から倭に仏像と経典が届いたのは、武帝の晩年か、その死の直後のことである(538年説と552年説がある)(仏教の日本伝来)。中国の寺でいまも行われる懺悔の大法要「梁皇宝懺」は、武帝が亡き皇后のために作らせたものと伝えられる。南朝でいちばん長く在位し、いちばん学問を愛し、いちばん慈悲深かった皇帝は、その慈悲の甘さのために、自分の国が崩れるのを宮城の中で見ながら死んだ。