できごと

張議潮の帰義軍

Zhang Yichao's Guiyi Army
AD848年
重要度 4
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD848年の版図を描いています(30勢力)。

概要

吐蕃が敦煌を取って60年。吐蕃が内乱で割れると、敦煌の豪族張議潮が立ち、沙州を取り、河西11州を唐に返した。帰義軍。莫高窟に彼の出行図がある。唐が滅んでも、宋が来ても、敦煌は190年近く、この軍の土地だった。11世紀に西夏が来た。

場所

敦煌
40.14°N 94.66°E · 中国・甘粛省

関わった人(1)

張議潮AD799年–AD872年 · 率いた

本文

敦煌は、中国の西の果ての河西回廊にあるオアシスの町である。西域へ向かう旅人の最後の補給地で、町の南の崖には4世紀から石窟が掘られ続けた。敦煌の石窟の造営である。唐の時代、この町は沙州と呼ばれ、中国の一部として栄えていた。

その運命を変えたのは、755年に始まった安史の乱だった。唐は反乱を鎮めるために、西の守りの兵を呼び戻した。その隙を突いて、チベット高原の吐蕃が東へ進んだ。763年には吐蕃の軍が一時、唐の都の長安まで占領した(吐蕃の長安占領)。河西回廊の町は次々に吐蕃の手に落ち、敦煌も長い包囲の末に降った。落ちた年は786年ごろとする説が有力で、781年とする説もある。

848年、張議潮将軍が吐蕃に対して勝利を得た時の凱旋図。莫高窟第156窟、唐末
848年、張議潮将軍が吐蕃に対して勝利を得た時の凱旋図。莫高窟第156窟、唐末Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

吐蕃の支配は60年ほど続いた。住民は吐蕃風の服を着させられ、髪を編まされたと伝えられる。唐の詩人白居易は、吐蕃に捕らえられた漢人が、年に一度の正月だけ唐の服を着ることを許され、東を向いてひそかに涙を流す、と詩に詠んだ。一方で、吐蕃は仏教を重んじたので、敦煌の寺院と石窟の造営はこの時代も続き、チベット語の経典も多く写された。

842年ごろ、吐蕃の王ランダルマが暗殺されると、王家は割れ、帝国は内乱で崩れていった。河西の吐蕃の守備も揺らいだ。敦煌の豪族の家に生まれた張議潮は、この時を待っていた。張氏は代々この地の役人を務めてきた家で、張議潮は吐蕃の下でも地元の有力者として力を蓄えていた。

出征する張議潮を描いた壁画
出征する張議潮を描いた壁画Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

848年、張議潮は人々を率いて立ち、吐蕃の守備隊を追い払って沙州を取り戻した。続いて隣の瓜州も取った。地元の高僧の洪䛒も、これを支えたとされる。張議潮はすぐに唐の朝廷へ知らせを送ろうとしたが、間の道はまだ吐蕃やほかの勢力に塞がれていた。使者をいくつもの道に分けて送り、そのうちの一隊がようやく長安にたどり着いたと伝えられる。60年以上音信の絶えていた西の果てから、自分たちはまだ唐の民だという知らせが届いたのである。

張議潮はさらに兵を進め、河西の町を次々に取り戻した。851年、兄の張議潭が、取り戻した11州の地図と戸籍を携えて長安に入り、唐の皇帝に献じた。唐は張議潮を帰義軍節度使に任じた。帰義とは、正しい道に帰る、という意味である。861年には河西の要の涼州も取り戻した。

吐蕃(チベット)への勝利を祝う様子を描いた壁画
吐蕃(チベット)への勝利を祝う様子を描いた壁画Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

だが、唐にはもう河西を守る力はなかった。朝廷は張議潮の力が大きくなりすぎるのを恐れた。867年、兄が長安で死ぬと、張議潮は自ら長安に入り、高い官職を与えられたが、敦煌には戻れなかった。事実上の人質だった。872年、長安で死んだ。

敦煌は甥の張淮深が継いだが、一族の争いで殺された。910年ごろには張氏の張承奉が西漢金山国を名乗って自ら天子を称したが、周りのウイグルの勢力に押されて長く続かず、914年ごろ曹議金が実権を握った。曹氏は東のウイグルや西のホータンの王家と婚姻で結び、唐が滅んだ後も五代や宋に使者を送り、名目の上では中国の王朝の臣として敦煌を治め続けた。帰義軍の時代は、張氏と曹氏を合わせて、11世紀に西夏が河西を支配するまで、およそ180年から190年に及んだ。

莫高窟の第156窟には、張議潮が軍を率いて進む行列の絵が描かれている。旗を掲げた騎兵、太鼓と笛の楽隊、踊り手が並び、その中ほどに白い馬に乗った張議潮がいる。向かいの壁には、妻の宋氏が楽人や侍女を連れて進む行列が描かれる。地方の一族の長が、自分の功を仏の窟の壁に残したのである。

帰義軍の時代を生き生きと伝えるのは、1900年に第17窟、いわゆる蔵経洞から見つかった数万点の文書である。道士の王円籙が偶然に見つけたこの小さな部屋には、11世紀ごろに封じられた経典や文書がぎっしり詰まっていた。その多くは、1907年にイギリスのスタイン、翌年にフランスのペリオが持ち去り、いまはロンドンやパリにある。契約書、戸籍、役所の書類、手紙、学校の練習帳。そこから、唐の都から遠く切り離された町で、人々がどう暮らし、どう唐の民であり続けようとしたかが見えてくる。

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