晋による統一
概要
呉が降り、およそ100年ぶりに中国が一つに戻った。ただしこの統一は長く続かない。
場所
32.06°N 118.80°E · 中国・江蘇省南京
本文
220年に後漢が滅び、曹丕が魏の皇帝となって以来(曹丕の即位(漢の滅亡))、中国は魏・蜀・呉の三つの国に分かれていた(陳寿『三国志』が描いた時代である)。黄巾の乱から数えれば、中国が統一を失って、すでにおよそ100年がたっていた。
三国のうち最も大きかった魏では、皇帝に代わって、司馬氏が実権を握っていった。諸葛亮の北伐を防いだ将軍の司馬懿は、249年、皇族の曹爽が皇帝のお供で都を離れた隙にクーデターを起こし、曹爽の一派を滅ぼした。高平陵の変と呼ばれる。その後、子の司馬師と司馬昭が相次いで権力を握り、皇帝の廃立まで行った。260年には、司馬氏に反発した若い皇帝の曹髦が、自ら兵を率いて司馬昭を討とうとして、逆に殺されている。

263年、司馬昭は蜀に軍を送り、蜀の皇帝・劉禅を降伏させた。その2年後に司馬昭が死ぬと、子の司馬炎が魏の皇帝から位を譲られ、晋の皇帝となった(武帝)。魏が漢から位を譲り受けたのと、まったく同じ形の「禅譲」である(司馬炎の晋建国)。
残る呉は、長江の下流の建業(いまの南京)を都にしていた。だが最後の皇帝・孫晧は暴政で知られ、国の内は乱れていた。晋は、蜀の地で長い年月をかけて大きな軍船を造らせ、279年の暮れ、長江の上流と北の各地から一斉に呉へ攻め込んだ。呉は長江に鉄の鎖を張って船を止めようとしたが、晋の水軍は火を放ってそれを焼き切り、川を下った。翌280年、孫晧は降伏し、呉は滅びた(呉の滅亡(晋の統一))。中国は、およそ100年ぶりに一つに戻った。

統一を果たした武帝は、戦乱で荒れた国を立て直そうとした。農民に土地を割り当てて税を取る仕組み(占田・課田)を定め、州や郡の兵を減らして、平和の時代に備えた。陳寿が三国の歴史をまとめた『三国志』も、この晋のもとで書かれている。
しかし、統一の後の武帝は、政治への熱を失い、宮中での遊びにふけるようになったと伝えられる。貴族たちの間では、富を競い合うぜいたくがはびこった。そして武帝は、魏が皇族を冷遇したために司馬氏に国を奪われたことを教訓に、自分の一族を各地の王に封じ、広い領地と兵を与えた。一族が力を持っていれば、他の家に国を奪われることはない、という考えである。
290年に武帝が死ぬと、跡を継いだのは、政治の能力に乏しいとされた恵帝だった。飢えた民が米も食べられないと聞いて、なぜ肉の粥を食べないのか、と言ったという逸話が『晋書』に残っている。実権をめぐって、皇后の賈南風や外戚、そして各地の王たちが争いを始めた。291年から306年まで16年にわたって続いたこの内乱を、八王の乱と呼ぶ。武帝が一族に与えた兵が、そのまま皇族どうしの殺し合いに使われたのである。

王たちは、戦いに勝つために、北方や西方から移り住んでいた匈奴や鮮卑などの人々を兵として引き入れた。彼らは、漢の時代から長く中国の北辺に住み、晋の支配のもとで重い負担に苦しんでいた。内乱の中で、彼らは自らの力を自覚するようになる。304年、匈奴の劉淵が自立して漢(のちの前趙)を建てた。ここから、北方の諸民族が華北に次々と国を建てる五胡十六国の時代が始まる。
311年、劉淵の子の劉聡の軍が都の洛陽を攻め落とし、晋の懐帝を捕らえた。洛陽は焼かれ、多くの官人や民が殺された。永嘉の乱と呼ばれる。長安で即位した愍帝も、316年に降伏した。統一から36年で、晋は都も皇帝も失ったことになる。

翌317年、皇族の一人の司馬睿が、長江の南の建康(もとの呉の都・建業)で晋を再興した(東晋の成立)。これを東晋と呼び、それ以前の晋を西晋と呼んで区別する。華北から多くの貴族や民が、戦乱を逃れて江南へ移り、南の開発が進んでいった。
一方、華北は百数十年にわたって分裂が続き、北魏が統一するのは439年である(北魏の華北統一)。その後も南北の対立は続き、中国が再び一つになるのは589年、隋の統一を待たなければならなかった。晋の統一は、三国時代の終わりであると同時に、より長い分裂の時代の、短い前触れでもあった。