王莽が新を建てる
概要
外戚が禅譲の形で帝位に就いた。周の古制に戻すという理想は現実に合わず、15年で倒れる。
場所
34.27°N 108.95°E · 中国・陝西省西安
関わった人(1)
王莽BC45年–AD23年 · 当人本文
紀元9年、前漢の外戚だった王莽が、幼い皇帝から位を譲られる形で帝位に就き、国号を新と定めた。武力で前の王朝を倒したのではない。徳のある者に天子の位が譲られる「禅譲」という、古代の聖王の伝説にならった形式をとった。
王莽は、元帝の皇后となった王政君の甥にあたる。王氏はこの皇后を後ろ盾に、一族から次々と政権の頂点である大司馬を出していた。王莽自身は、一族の中では若いころ父を亡くして恵まれない立場にあり、つつましく暮らし、儒学を熱心に学び、目上の者によく仕えたことで評判を得たと『漢書』は書く。贅沢を好む一族の中で、清廉な儒者として名を上げた人だった。

前漢の末は、皇帝の早死にと跡継ぎのない代が続いた。紀元前1年に哀帝が亡くなると、王莽は大司馬に返り咲き、9歳の平帝を立てて実権を握った。紀元5年の暮れ、平帝が十代の半ばで亡くなる。王莽が毒殺したという話が後に伝わるが、確かな証拠はない。王莽は2歳の幼児を跡継ぎに立て、自らは「仮皇帝」として政務を執った。
この前後、王莽が天命を受けるべきだと告げる予言や瑞祥が、各地から次々に届けられた。最後の決め手になったのは、漢の高祖の廟に、王莽を真の天子とするという天の命令を収めた銅の箱が現れた、という出来事だった。箱を作ったのは野心のある一人の男だったとされるが、王莽はこれを受け入れて即位した。以後、魏の曹丕から宋の趙匡胤まで、中国の王朝交代の多くは、この禅譲の形式を踏むことになる。
王莽が目指したのは、儒学の経典に描かれた周の時代の理想の制度に国を戻すことだった。天下の田を「王田」として売り買いを禁じ、一家の土地が決まった広さを超える場合は、余りを親族や村の者に分け与えさせた。奴婢も売り買いを禁じた。塩・鉄・酒を国の専売とし、大きな都市の市場で物の値段を国が整え、困った者に国が金を貸す仕組みも作った。官職の名や地名を、古典に合わせて片っ端から改めた。
理想としては筋が通っている。土地が豪族に集まり、貧しい農民が奴婢に落ちていく前漢末の現実に向けた手当てでもあった。だが現実にはうまく行かなかった。王田の制は、土地の売買で罪に問われる者が後を絶たず、豪族の強い反発を受けて、わずか3年で取り下げられた。貨幣は何度も作り替えられ、そのたびに古い銭が使えなくなり、人々は私的に銭を鋳るか、物々交換に戻った。官名や地名を変えすぎたため、役所の文書では新旧の名を書き添えなければ通じなかったという。
外交でもつまずいた。周辺の民族の君主に与えていた「王」の称号を格下げし、匈奴の単于に与えた印も取り替えたことで、北方の匈奴との関係が悪化した。
そこに天災が重なった。紀元11年ごろ、黄河が下流で大きく決壊し、流れる道筋が変わった。水害と飢饉が広い地域を襲い、山東の飢えた農民たちが集まって盗賊の群れになる。眉を赤く塗って目印にした「赤眉」の軍と、湖北の緑林山に拠った軍が大きくなり(赤眉と緑林の乱)、漢の皇族の血を引く者たちもこれに加わった。
紀元23年、昆陽の戦いで、王莽が送った大軍が、漢の一族の劉秀(のちの光武帝)らに破られた。同じ年、反乱軍が長安に攻め込み、王莽は宮中の池に建つ高台に逃れたが、そこで殺された。60代の後半だった。即位から数えて15年で、新はただ一代で終わる。2年後の紀元25年、劉秀が皇帝に即位して漢を再興する(後漢の成立)。
後漢の時代に班固がまとめた『漢書』は、王莽を、漢の位を盗んだ偽善者として描いた。その評価は長く中国の歴史の見方として受け継がれる。20世紀に入ると、土地の国有化や国による価格の統制に目を向けて、王莽を早すぎた社会改革者として見直す声も出た。思想家の胡適は、王莽を「社会主義者」と呼んでいる。
簒奪者か、早すぎた改革者か。いずれにしても、古典に描かれた理想を一気に現実へ当てはめようとした改革が、なぜ人々の暮らしを壊したのか。その例として、王莽の新はいまも引かれ続けている。