人物

宇文泰

Yuwen Tai
AD507年 – AD556年(享年49・推定)
西魏重要度 4

概要

武川鎮の鮮卑。逃げてきた皇帝を迎え、毒殺し、別の皇帝を立てた。関中の貧しい土地で、府兵制を作り、八柱国、十二大将軍。鮮卑と漢人を混ぜた軍。『周礼』で官制を作った。息子が北周を建て、その部下が隋を、その部下が唐を建てた。三つの王朝の祖父。

関わったできごと(1)

東魏と西魏の分裂AD534年 · 西

本文

宇文泰は、北魏が東西に割れたとき(東魏と西魏の分裂)、西の西魏を事実上の主として動かした人物である。字は黒獺。彼が関中の貧しい土地で作った軍と制度の上に、息子たちの北周が立ち、その北周の重臣の家から隋が、さらに唐が出た。

宇文泰
宇文泰Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

507年、北魏の北の国境に置かれた六つの軍鎮の一つ、武川鎮で生まれた。宇文氏は鮮卑の一派とされるが、もとは匈奴の流れをくむともいわれる。六鎮は、北魏が平城に都を置いていたころ、北方の遊牧民から都を守る要として、鮮卑の名家の子弟が詰めた所だった。ところが孝文帝が洛陽へ都を移し(孝文帝の洛陽遷都と漢化)、漢化を進めると、六鎮の兵は出世の道から外れ、辺境に取り残された。不満は積もり、523年ごろ、ついに六鎮の乱が起きた。

宇文泰の父と兄たちはこの乱の中で次々に命を落とした。若い宇文泰は反乱軍の中を生き延び、やがて乱を鎮めて権力を握った爾朱栄の配下に入った。爾朱栄の部将賀抜岳に従って、長安を中心とする関中へ赴いた。534年、賀抜岳が同僚に謀殺されると、残された兵たちは宇文泰を新しい指導者に推した。宇文泰は仇を討ち、関中の兵を一手に握った。27歳だった。

宇文泰(『北史演義』の挿絵)
宇文泰(『北史演義』の挿絵)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

同じころ、洛陽では、東の実力者高歓に押さえつけられていた北魏の孝武帝が、宇文泰を頼って長安へ逃れてきた。だが皇帝と宇文泰の仲はすぐに悪くなり、その年の暮れ、孝武帝は急死した。宇文泰が毒を盛ったと史書は伝える。宇文泰は北魏の皇族の元宝炬を新しい皇帝に立て、ここに西魏が始まった。高歓もまた別の皇族を立てて都を鄴に移しており、北魏は二つに割れた。

東魏と西魏の力の差は大きかった。東魏は河北の豊かな平野と、六鎮の兵の主力を抱えていた。西魏の関中は、かつての長安の都の跡こそあったものの、戦乱で荒れ、人も兵も少なかった。537年、高歓は大軍を率いて関中へ攻め込んだ。兵力は20万とも言われる。宇文泰の手元にはわずか1万ほどの兵しかなかった。宇文泰は渭水の湾曲部の沙苑に兵を伏せ、背の高い葦の茂みに兵を隠して敵を引き込み、一斉に襲いかかって大勝した。この勝利で西魏は生き延び、降った東魏の兵を自軍に加えた。

その後も東西の戦いは続いた。543年の邙山の戦いでは宇文泰が大敗した。546年には、高歓が西魏の要塞玉壁を大軍で包囲したが、守将の韋孝寛が五十日あまり持ちこたえ、高歓は病を得て引き揚げ、翌年に死んだ。

宇文泰の本当の仕事は、戦場の外にあった。少ない兵で強い東に対抗するために、彼は軍の作り方そのものを変えた。のちに府兵制と呼ばれる仕組みである。軍の頂点に八人の柱国大将軍を置き、その下に十二人の大将軍、さらに二十四の開府を置いて、兵を組織した。兵は鮮卑の出身者だけでなく、関中の漢人の豪族とその私兵からも集めた。兵となった者は租税を免除される代わりに、農閑期に訓練を受け、戦いに出た。

宇文泰は、鮮卑と漢人を一つの軍の中で結びつけるために、漢人の将軍たちに鮮卑の姓を与えた。十二大将軍の一人楊忠には普六茹、八柱国の一人李虎には大野という姓が贈られた。かつて孝文帝が鮮卑に漢の姓を名乗らせたのとは、ちょうど逆の向きである。

政治の仕組みも作り直した。腹心の漢人官僚蘇綽に命じて、役人の心得を六か条にまとめた詔書を出させた。さらに、儒教の経典の一つで、周の王朝の理想の官制を記したとされる『周礼』にならい、役所を天官・地官・春官・夏官・秋官・冬官の六つに分ける制度を整えた。古代の周を名乗ることで、東の東魏や南の梁に対して、自分たちこそ正統だと示そうとしたのである。

晩年の西魏は勢いに乗った。南朝の梁が侯景の乱で崩れると、553年に蜀を奪い、554年には梁の元帝のいる江陵を攻め落とした。元帝は殺され、宇文泰は梁の皇族蕭詧を江陵に立てて従わせた。蕭詧は蕭統(昭明太子)の息子である。江陵からは十数万の人々が捕虜として長安へ連れ去られた。

556年、宇文泰は巡行の途中で病に倒れ、死んだ。数えの50歳。翌557年、甥の宇文護が西魏の皇帝から位を譲らせ、宇文泰の三男宇文覚を天王の位につけた。北周である。のちに北周の武帝が北周の廃仏を行い、577年に北斉を滅ぼして華北を統一した。

その北周から位を奪ったのが、楊忠の子の楊堅、つまり隋の文帝である(隋の中国再統一)。唐を建てた李淵は李虎の孫にあたる。八柱国の一人独孤信の娘たちは、それぞれ宇文泰の長男の北周明帝、楊堅、そして李淵の父に嫁いだ。武川鎮から出て宇文泰の下に集まった軍人の家々が、婚姻で結びつきながら、北周・隋・唐の三つの王朝の皇室と重臣を出し続けた。歴史家の陳寅恪はこの人々を「関隴集団」と呼んだ。府兵制は唐の前半まで国の軍の柱であり続け、唐の太宗の時代の軍もその上に立っていた。

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