三顧の礼

概要
47歳の劉備が、27歳の諸葛亮の草庵を三度訪ねた。「天下三分の計」。北に曹操、東に孫権、西に自分。『出師表』に「先帝は臣を卑しいと思わず、三たび臣を草廬に顧みた」とある。三顧は本人の言葉で、他は小説。
場所
32.03°N 112.12°E · 中国・湖北省襄陽
関わった人(2)
劉備AD161年–AD223年 · 訪ねた諸葛亮AD181年–AD234年 · 出た本文
207年、劉備は荊州の新野にいた。黄巾の乱以来、各地を転々として戦い、曹操に敗れて荊州の長官劉表のもとに身を寄せてから、6年あまりがたっていた。47歳である。ある日、厠に立った劉備は、長く馬に乗らないせいで内腿に肉がついているのに気づき、涙を流した。月日は過ぎ、老いが迫るのに、何の功も立てていない、と。「髀肉の嘆」として知られる話で、正史の注に引かれた書物に見える。
劉備には関羽や張飛のような勇将はいたが、天下の形勢を見通し、策を立てる人がいなかった。荊州の人物評の名士で、「水鏡」と呼ばれた司馬徽は、時勢を知る者は俊傑の中にいる、この地には「伏龍」と「鳳雛」がいる、と劉備に語ったと伝えられる。伏龍とは諸葛亮、鳳雛とは龐統のことだった。劉備のもとにいた徐庶も、諸葛孔明は臥した龍だと推し、この人は会いに行くべきで、呼びつけて来させることはできない、と言った。

陳寿の『三国志』(陳寿『三国志』)の諸葛亮伝は、その後を短く書く。劉備は諸葛亮を訪ね、三度目にようやく会えた。それだけである。一度目や二度目に何があったかは、何も書かれていない。諸葛亮はこのとき27歳。襄陽の西の隆中に住み、自ら畑を耕しながら、自分を古代の名宰相管仲や名将楽毅になぞらえていた。
三度訪ねたことは、諸葛亮自身が書き残している。劉備の死後の227年、北伐に出る前に若い皇帝劉禅へ奉った『出師表』で、彼はこう述べた。臣はもともと無位無官の身で、南陽で畑を耕し、乱世で命を全うできればよく、諸侯に名を知られることなど望んでいなかった。先帝は臣を卑しいとせず、自ら身を屈して三度も臣を草廬に訪ね、当世のことを尋ねられた。それに感激して、先帝のために力を尽くすことを誓ったのだ、と。本人が皇帝に宛てて書いた文であり、三度の訪問は確かな事実と見てよい。

ただし、異説もある。三国の魏の側で書かれた『魏略』などは、諸葛亮のほうから劉備を訪ね、策を説いて重んじられるようになったと伝える。正史に注を付けた南朝の裴松之は、『出師表』の言葉と食い違うとして、この説を退けている。
そのとき諸葛亮が語ったとされる策は、「隆中対」と呼ばれる。曹操は百万の軍を擁し、皇帝を手中にして諸侯に命を下しているから、正面から争うことはできない。江東の孫権は三代にわたって地盤を固め、民もなついているから、味方にはできても奪うことはできない。荊州は四方に通じる要地で、いまの主はそれを守りきれない。西の益州は険しい山に囲まれた豊かな土地で、主の劉璋は暗愚である。荊州と益州をともに押さえ、西と南の異民族をなだめ、外は孫権と結び、内は政治を整える。天下に変事があれば、荊州の軍を北の洛陽へ、益州の軍を関中へ進めれば、漢の王室を再興できる。北の曹操、東の孫権、西の劉備。天下を三つに分けて、そこから一つにする構想である。

まだ一度も戦を指揮したことのない27歳の青年の構想は、その後の歴史の筋書きにほぼ重なった。翌208年の赤壁の戦いで劉備と孫権は曹操を退け、劉備は荊州の一部を得て、214年には益州を手に入れた(劉備の入蜀)。だが219年、孫権に背後を突かれて関羽が討たれ、荊州は失われた(関羽の死と荊州の喪失)。二つの方面から攻め上がる策の、片方の足が折れた。三国は鼎立したが、漢の再興はならなかった。
一度目は留守、二度目は雪の中を訪ねてまた会えず、三度目は春の昼寝から覚めるのを階段の下で立って待つ。張飛は、縄で縛ってでも連れて来ると息巻く。広く知られたこの場面は、明の時代にまとめられた小説『『三国志演義』』の第37回と第38回で描かれたものである。目を覚ました諸葛亮が口ずさむ「大夢誰か先に覚む、平生我自ら知る」で始まる詩も、小説の中のものだ。
「三顧の礼」という言葉は、やがて、目上の人が礼を尽くして優れた人を迎えることを指すようになり、日本でもいまなお使われる。諸葛亮が住んだ土地については、湖北省襄陽市の古隆中と、河南省南陽市の臥龍岡が、どちらも自分のところだと名乗り、千年以上にわたって争いが続いている。『出師表』の「南陽に耕す」の南陽が、当時の郡の名なのか町の名なのかで、読み方が分かれるからである。