できごと

馬嵬の変

Mawei incident
AD756年
重要度 4
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD756年の版図を描いています(35勢力)。

概要

安禄山に長安を追われた玄宗の一行が、馬嵬で止まった。兵が楊国忠を殺し、貴妃も殺せと言った。玄宗は高力士に命じて、仏堂の前で縊らせた。皇太子はそこで父と別れ、北へ行って即位する。

場所

馬嵬
34.31°N 108.14°E · 中国・陝西省興平

関わった人(2)

楊貴妃AD719年–AD756年 · 殺された玄宗AD685年–AD762年 · 皇帝

本文

玄宗の治世の前半は「開元の治」と呼ばれ、唐の最盛期とされる。だが晩年の玄宗は政治に倦み、寵愛した楊貴妃とその一族を重んじた。貴妃の又従兄にあたる楊国忠は宰相となり、北の辺境で大軍を握る節度使の安禄山と激しく対立する。

貴妃は、もとは玄宗の息子の寿王の妃だった。玄宗はいったん彼女を道教の女冠(女の道士)として寿王のもとから離し、のちに自分の後宮に迎えて貴妃とした。安禄山はソグド人と突厥の血を引く武将で、玄宗と貴妃に取り入り、貴妃の養子になったとまで伝えられる。宮廷の寵愛を受けた者どうしの争いが、帝国を揺るがす乱になった。755年の冬、安禄山は楊国忠を除くと称して范陽で兵を挙げた(安史の乱)。反乱軍はたちまち洛陽を落とし、翌756年6月、長安を守る最後の関所、潼関が破られた。

遼代の墓壁画(寳山遼墓)、楊貴妃に関連
遼代の墓壁画(寳山遼墓)、楊貴妃に関連Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

6月13日の夜明け前、玄宗は貴妃と楊国忠、皇太子の李亨ら一族と、わずかな兵を連れて、ひそかに長安の宮殿を出た。目指すのは、山を越えた南西の蜀(いまの四川)だった。朝、出仕した官僚たちは、皇帝がいないことを知って逃げ散った。

翌14日、一行は長安の西の馬嵬の宿駅に着いた。急な旅で兵は疲れ、食べ物も足りなかった。不満は、乱を招いたとされる楊国忠に向かう。皇帝の近衛の将陳玄礼は兵の怒りをくみ取り、ちょうど吐蕃の使者たちが楊国忠を囲んで食べ物を求めているのを見た兵が、楊国忠が異民族と謀反をたくらんでいる、と叫んだ。楊国忠は殺され、その首は槍に刺されて駅の門にさらされた。その子や、貴妃の姉の韓国夫人、秦国夫人も殺された。

楊貴妃
楊貴妃Wikimedia Commons Shoen Uemura · Public domain

兵は駅を取り囲んで動かなかった。玄宗が出て行って慰めても解散しない。陳玄礼は、楊国忠は謀反をはかって誅されました、貴妃がおそばにいるのはよろしくありません、と言った。玄宗が、貴妃は奥深くにいて謀反など知るはずがない、と言うと、宦官の高力士が、貴妃に罪が無いのは確かです、しかし将兵はすでに楊国忠を殺しました、貴妃が陛下のおそばにいれば兵は安心できません、兵が安心すれば陛下も安らかです、と説いた。玄宗はついに、高力士に命じて貴妃を仏堂へ連れて行かせ、縊り殺させた。数えで38歳だった。遺体は兵に見せられ、陳玄礼らは兜を脱いで謝した。こうした経過は『旧唐書』や『資治通鑑』に記されている。

貴妃は道ばたに葬られた。翌年、長安に戻った玄宗が密かに改葬させると、肌はすでに朽ちて、身につけていた香袋だけが残っていた、と史書は伝える。

「楊貴妃図」高久靄厓筆 静嘉堂文庫美術館蔵
「楊貴妃図」高久靄厓筆 静嘉堂文庫美術館蔵Wikimedia Commons Takaku Aigai(1796 - 1843) 高久靄厓 · Public domain

いまも陝西省の馬嵬には楊貴妃の墓と伝える塚があり、訪れる人が絶えない。その土を顔に塗ると肌が美しくなる、という言い伝えまで生まれ、墓の土を持ち去る人が多かったため、塚は煉瓦で覆われたという。

馬嵬は、父と子の別れの場ともなった。土地の民が道をふさいで皇太子に留まるよう求め、李亨は父と別れて北の霊武へ向かう。7月、李亨は群臣に推されて霊武で即位した。粛宗である。蜀で知らせを受けた玄宗は、追認するほかなく、上皇となった。皇帝が自ら位を退いたのではなく、乱の中で息子に位を奪われた形だった。

浮世絵師、細田栄之によって描かれた楊貴妃
浮世絵師、細田栄之によって描かれた楊貴妃Wikimedia Commons Hosoda Eishi · Public domain

乱は8年続き、唐はその後も150年続いたが、かつての力は戻らなかった。玄宗と貴妃の物語は、50年後に白居易が白居易「長恨歌」で歌い上げ、天にあっては比翼の鳥、地にあっては連理の枝、という言葉で恋の物語として広まった。日本でも『源氏物語』の書き出しに影を落とし、楊貴妃は死なずに日本へ逃れたという伝説まで生まれて、山口県には楊貴妃の墓と伝える塔がある。史書が描くのは、愛した人を兵の要求のままに差し出した、老いた皇帝の姿である。

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