乾隆帝
概要
清の版図を最大にした。祖父を超えないよう60年で自ら退位する。その先に西洋との摩擦が待っていた。
所属
清関わったできごと(2)
乾隆帝の治世1735年 · 当人清の文字の獄AD1772年 · 命じた本文
1711年9月25日、北京で、のちの雍正帝の四男として生まれた。名は弘暦。清が中国を支配するようになってから70年近く、祖父の康熙帝の長い治世の後半にあたる。11歳の頃、祖父の離宮で初めて康熙帝に会い、その聡明さを気に入られて、しばらく宮中で祖父のそばに置かれた。祖父は孫を狩りに連れて行き、熊が襲いかかってきたときにも動じなかった少年に感心したと伝えられる。

1722年に康熙帝が亡くなると、父の雍正帝が即位した。康熙帝の晩年は、息子たちの激しい後継争いに苦しめられていた。その経験から、雍正帝は跡継ぎの名を公にせず、紙に書いて小箱に収め、宮殿の「正大光明」の額の裏に隠させた。1735年、雍正帝が急死して箱が開けられると、そこには弘暦の名があった。25歳の皇帝、乾隆帝の即位である。
父の雍正帝は、役人の不正を厳しく取り締まり、国の財政を立て直していた。乾隆帝はその蓄えを受け継ぎ、治世の前半は、清が最も豊かで力に満ちた時代になった。米や綿、茶、陶磁器の生産が伸び、人口は増え続けた。乾隆帝の治世の間に、中国の人口はおよそ3億に達したと見積もられている。

乾隆帝は、自分の戦いを「十全の武功」と呼んで誇り、晩年には自らを「十全老人」と名乗った。中でも大きかったのが、西北のモンゴル系の遊牧国家ジュンガルとの戦いである。ジュンガルは祖父の代から清と争ってきた強敵だった。1755年から清はジュンガルに攻め込み、内紛と天然痘の流行にも乗じて、その国を滅ぼした。清軍は降伏しない者を容赦なく殺させ、ジュンガルの人々はほとんど姿を消した(ジュンガルの滅亡)。続いて天山の南のオアシス地帯も征服し、この広大な地域は「新しい領土」、新疆と呼ばれるようになった。チベットにも駐在の大臣を置いて影響を強め、モンゴルとあわせて、清の版図はこの時代に最も大きくなった。いまの中国の国境線の大部分は、このときの清の版図をもとにしている。
ただし、十の武功のすべてが勝利だったわけではない。西南の山地の少数民族との戦いは、莫大な戦費を費やして長引いた。ビルマやベトナムへの遠征は、苦戦の末に、名目上の服属を取りつけて引き揚げたにすぎなかった。

文化の面では、乾隆帝は自ら筆を執る皇帝だった。生涯に作った詩は4万首を超えるとされ、中国の歴史上、一人で最も多くの詩を残した人物とも言われる。ただし、詩人としての評価は高くない。宮中に集めた書画を愛し、気に入った作品には自分の印をいくつも押し、ときに余白に感想の文を書き込んだ。王羲之の書とされる「快雪時晴帖」ほか三点の名品を収めた部屋を「三希堂」と名付けて大切にした。イタリア人の宣教師で画家のカスティリオーネを宮廷に置き、西洋の遠近法を取り入れた絵を描かせ、離宮の円明園には西洋風の宮殿や噴水まで造らせた。
1773年、乾隆帝は天下の書物を集めて写し、経・史・子・集の四つに分類した叢書を作るよう命じた。『四庫全書』である。3400種あまり、7万9000巻に及ぶ書物が10年近くかけて筆写され、7部が作られて、宮中や各地の書庫に収められた。だがこの事業は、同時に大規模な検閲でもあった。満洲人や異民族を蔑む言葉、清に不都合な記述を含む書物は、書き換えられ、あるいは焼かれた。焼かれた書物は数千種に及ぶとされる。言葉尻をとらえて文人を罰する「文字の獄」も、この治世に最も多く起きた(清の文字の獄)。集めることと消すことが、一つの事業の中で同時に進められた。

乾隆帝は祖父にならって、江南へ6度の巡幸を行った。華やかな行列と各地の歓迎の宴は、皇帝の威光を示したが、その費用は地方の役人と民の負担になった。
治世の後半、乾隆帝は満洲人の若い近衛の武官、和珅を異例の速さで出世させ、政治を任せた。和珅は賄賂と横領で途方もない財産を蓄え、役人の腐敗は国中に広がった。軍の規律も緩み、地方では民衆の不満が高まっていった。
その頃、西洋の国々は中国の茶や絹、陶磁器を求めていた。清は1757年から、ヨーロッパの商人との貿易を南の広州一港に限り、決められた商人だけに取引させていた(広州の茶貿易)。1793年、イギリス国王ジョージ3世の使節マカートニーが、貿易の拡大と常駐の外交官を求めて、乾隆帝の避暑地の熱河を訪れた(マカートニー使節団)。皇帝に会う作法をめぐって、ひざまずいて額を床につける礼を求める清と、それを拒むイギリスの間で、もめごとが起きた。乾隆帝は使節を迎えたが、イギリス国王に宛てた勅書で、わが国には何でもあり、そちらの国の品物を必要としない、と書いて要求をすべて退けた。

1795年、在位60年を迎えた乾隆帝は、祖父の61年を超えるのは畏れ多いとして、翌年、息子の嘉慶帝に位を譲った。だが「太上皇帝」として実権は手放さず、和珅もそのまま権力を握り続けた。譲位と同じ年には、内陸の山地で白蓮教徒の乱が起き、鎮圧に何年もかかった。
1799年2月7日、乾隆帝は87歳で亡くなった。中国の歴代皇帝の中で最も長生きした一人である。その数日後、嘉慶帝は和珅を捕らえて自害を命じ、その莫大な財産を没収した。最盛期と衰えの始まりを一身に抱えた治世だった。マカートニーの訪問から47年後、イギリスは茶の代金の支払いに困って売り込んだアヘンをめぐって、清に戦争を仕掛けることになる(アヘン戦争)。