則天武后
概要
中国史上ただ一人、自ら皇帝を名乗った女性。科挙で人を登用し、後世の史書からは苛烈な評ばかりを受ける。
関わったできごと(1)
則天武后の即位AD690年 · 当人本文
武則天、日本でいう則天武后は、624年ごろに生まれた。父の武士彠は山西の材木商で、唐の成立のとき、のちの高祖李淵の挙兵を資金で助け、唐の功臣として地方の長官に取り立てられた人物である。母は隋の皇族につながる名門の楊氏の出だった。父が早くに亡くなると、母と娘たちは異母兄たちに冷たく扱われたと伝えられる。

14歳ほどのとき、美しさを聞いた二代皇帝唐の太宗の後宮に入り、才人という低い位を与えられた。のちに彼女自身が語ったという話が、宋代の歴史書『資治通鑑』に載っている。太宗のもとに誰も乗りこなせない荒馬がいた。若い彼女は、鉄の鞭と鉄の槌と短刀があれば従わせてみせる、鞭で打って従わなければ槌で頭を打ち、それでも従わなければ短刀で喉を斬る、と言い、太宗はその気性をほめたという。だが、太宗のもとでの彼女は目立たない存在のまま、649年に太宗が死ぬと、慣例に従って、子のない妃たちとともに寺に入り尼になった。
彼女を寺から呼び戻したのは、太宗の子で位を継いだ高宗だった。高宗は父の存命中から彼女を見初めていたとされる。高宗の皇后の王氏は、夫の寵愛を集める別の妃に対抗させるために、彼女を後宮に戻すことに手を貸したといわれる。だが、後宮に戻った彼女は、たちまち高宗の心をつかみ、皇后自身を追い落としていく。654年、彼女の産んだ幼い娘が急死すると、それは皇后のしわざとされた。のちの史書は、彼女が自分の手で娘を殺して皇后に罪をかぶせたと書いているが、これは彼女を憎む後世の筆によるものではないかと疑う研究者も多い。

655年、高宗は王皇后を廃し、彼女を皇后に立てた。太宗以来の重臣たちは、父の妃だった女性を皇后にすることに強く反対したが、将軍の李勣が、これは陛下の家の事であり、外の者に尋ねる必要はない、と言って高宗の背を押した。廃された王皇后と、もう一人の妃は、まもなく殺された。反対した重臣たちも、次々に都を追われた。
やがて高宗は持病のめまいと目の病に苦しむようになり、皇后が政務を見るようになった。朝廷では、高宗と並んで簾の後ろに座る皇后の姿が見られるようになり、人々は二人を二人の聖人、二聖と呼んだ。この時代に、唐は新羅と組んで朝鮮半島の百済と高句麗を滅ぼしている(高句麗の滅亡)。675年には、洛陽の南の龍門の岩山に、高さ17メートルを超える盧舎那仏が完成した。皇后はこの造営に自分の化粧料を寄付したと、像のかたわらに刻まれた銘文が伝えている。

683年に高宗が死ぬと、皇后は皇太后として政治を握った。息子の中宗が即位したが、妻の一族を重んじようとすると、わずか2か月ほどで廃した。次に立てた弟の睿宗は、名ばかりの皇帝だった。地方で唐の皇族や役人が兵を挙げると、彼女はこれを鎮め、反対派を根こそぎにするため、密告を奨励した。宮殿の前に誰でも文書を投げ込める銅の箱を置き、来俊臣や周興といった酷吏に容疑者を取り調べさせた。拷問を伴う取り調べで、唐の皇族や高官が数多く殺された。
690年、彼女はついに自ら皇帝の位に就き、国の名を周と改めた(則天武后の即位)。60代の半ばになっていた。中国の長い歴史の中で、女性が正式に皇帝を名乗ったのは、後にも先にもこの一度だけである。仏教の経典に、女性が国を治めるという予言を見いだし、それを全国に広めて、女帝の正しさを説かせた。天や地、日や月を表す新しい文字を作らせ、自分の名にも、日と月が空の上にある形の字を用いた。
門閥の貴族たちの支持を当てにできなかった彼女は、家柄によらずに人材を登用した。官僚を選ぶ試験、科挙(科挙の始まり)を重んじ、皇帝が自ら受験者を試す試験を行い、武芸の試験も始めた。臣下にはだれでも自分を推薦することを許した。こうして見いだされた狄仁傑のような有能な宰相たちは、のちの唐の繁栄を支える人々を育てた。苛烈な粛清と、実力による人材登用とが、同じ治世の中で並んでいたのである。この時代、日本から来た使いの一行は、長安で彼女に迎えられ、日本という新しい国の名を伝えたとされる。
晩年、彼女は若い張易之、張昌宗の兄弟を寵愛し、政治を任せるようになった。705年、病に伏した80歳を超える女帝に対し、宰相の張柬之らが兵を宮中に入れて兄弟を殺し、退位を迫った。中宗が再び位に就き、国の名は唐に戻った。その年の12月、彼女は亡くなった。遺言によって皇帝の号を去り、高宗の皇后として、長安の西の乾陵に夫と並んで葬られた。

後世の歴史書の評価は、極めて厳しい。歴史を書いたのは、儒教の教えを身につけた男性の官僚たちである。彼らにとって、夫の父の妃だった女性が皇后となり、さらに女性が皇帝となったこと自体が、天下の秩序を乱す大罪だった。残酷な逸話の多くも、この筆から生まれている。近年は、彼女の治世に人口や耕地が増え、孫の玄宗の時代の繁栄の土台が作られたことに目を向ける見方も広がっている。
乾陵には、高宗の功績を刻んだ碑と並んで、一文字も刻まれていない大きな石碑が立っている。誰が、なぜ文字を刻まなかったのかははっきりしない。自分の評価は後の人に任せる、という意味だと語られることが多い。